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野の花(前篇)

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ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳 トシ  口語訳

野の花

           二十九 「山鳥と鶴」

 「決して人の前でいやらしい素振りをしては成らないぞ」
とは何と思いやりのない手荒な言い渡しだろう。今まで冽(たけし)は打ち付けにかかる無愛想な言葉を吐いたことはなく、なるべく気色に触らないような婉曲な言葉を用いるのが何時もだったのに、こうむきだしに、妻を赤面させるようなことを言うとは、誰かにそそのかされたのではないだろうか。 

 澄子の胸には誰の策略かと言うことが、鏡に写るように分かる。これは今初めてのことではない。母親の胸から出たときは冽の言い方が母親らしく、品子の胸から出たときは品子の言い方に似ているのが長年の経験から自ずから分かっている。

 いずれにしても、余りにひどい言い方と思い澄子はろくに返事もせずに終わったが、こうなると品子に負けてばかりいる日頃の悔しさが輪をかけて強くなり、ひしひしと身にこたえた。

 内気でいれば、内気でいるで、子爵夫人の地位に耐えられないと言われ、たまたま少し奮起して人並みらしくしたいと思えば、その初っ端(ぱな)に早このように叱られる。到底この身は子爵夫人という今の地位に耐えられないだろうかと、ただ情けなく思って再び心が沈みかけた。

 けれど、このまま終わっては再び浮かぶ瀬のないまでに、全く品子に負けてしまうのである。負けてしまうほどならば、最後の思い出として、もう一度努力してみようとの気が起こり、更に春海夫人に励まされた言葉なども思い出して、沈みかけた気を自分でようやく取り直した。

 素直な大人しい澄子にこれだけの気が出るのは、よくよくの事である。その代わり今度又くじかれる様なことがあれば、その時こそは澄子の終滅と思わなければ成らない。澄子は今を必死の場合と見て、心の底にこれだけの決心を抱いている。

 だから、この日から、たとえ夫と品子の自分との間が余り滑らかでないとは言え、澄子は何気なく身を持して、万事に心を配り、自分の身がこの子爵家の主婦人として主婦人の職に耐えなければならないと、人知れず下稽古のつもりで居たが、そのうちに春海夫人の夜会の時となった。

 この夜会にこそ、澄子のふつつか、澄子の不調法を、十分示してくれようと前から待ち受けていた品子は、非常に華美に着飾って、辺りを眩(まばゆ)いほどに身を作って出たが、澄子のほうは品子と競争するように見られるのは面白くないと侍女粂(くめ)の注意で、出来るだけあっさりと月色のように淡白な色の服を着て、飾り物も派手にならないようにしてただ高貴な宝玉類だけを選び、一段気品を高くして出席した。

 ただこの気品だけですでに品子との優劣が分かっている。品子は美々しい山鳥のごとく、澄子は上品な鶴の如しだ。
 品子はこの様を見て、初めはすでに競争心も出ないほどに敗北したのかと、自分の勝利の余りにあっけなさを感じたが、いよいよ、パーティーに出てみると、自分のように美々しく着飾ったのはますます類が多く、澄子の淡然たる服装は群集が多くなれば多くなるだけ、いよいよ品位が上がってますます水際立って見えた。

 これに、自分の服装と澄子の服装とを比べてみると澄子の首にかかっている一個のダイヤモンドで我が総身の飾りを三倍も買い整えるだけの値打ちがある。これにつけても子爵夫人という身分を澄子に占められているのがますます悔しい。

 けれど、平民の子は平民の子だけに、今に必ず人に笑われるような不調法があるだろう。今に今にと唯それだけを思ってわずかに心を慰めていると、何故か、今まで何事も自分に聞きに来ていた澄子が全く自分を忘れたようで、傍に来ることもなく、社交という渦巻きの中心に立ったようで、他の客を引き受け、何時ものような臆面もなく笑い興じている。

 そのうちに、かねて計画した劇となったが、品子の望みはただこの一事に残っている。外の事はとにかくも、こればかりは澄子のような、神経の弱い者には勤まらないだろうと思ったが、いよいよ場に臨んで見ると、千古の美人ロザモンドの面影が全く自然に備わっているかと思われる。

 勿論、必死の覚悟とは言え、なお物慣れない澄子には多少神経の落ち着かないところはあるが、その役柄が、神経の落ち着かない様子を眼目としているので、少しも不似合いの失策のというところはない。

 いかにも残念の至り由、本当に澄子を殺してしまおうかとまで思ったが、これも、懐剣を以ってロザモンドを殺そうとする、女王の嫉妬を演ずるものなので、全く真に迫るように見えて、その一挙一動に喝采の声が沸いた。一番気が入らないように見えたのは冽の国王ヘンリーであった。



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