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野の花(前篇)

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ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳 トシ口語訳

野の花

           三十二  「止むを得ん、同意」

 何事を問われるのか知らないが、冽(たけし)が怒りを帯びている事は澄子にはよく分かる。しかも、その怒気が又、例のごとく、何か品子の告げ口から出ていることも推量できる。

 普段ならば、夫に毛ほどの不機嫌でも見えれば直ぐに自分を咎めて、これを慰めようとする澄子だが、この不機嫌は品子の策略から出たと思えば、何となく気分が悪く、慰める気にもならない。これは人情の自然と言うものであろう。叱るなら叱られてみようと言う様な気になっている。総て夫婦の仲が破裂するのはこの様な気持ちの時が多い。

 冽は眼を据えて澄子の顔を見、
 「貴方を知っている人々が、寄るとさわると貴方の事を噂していると言うが、果たして貴方はその噂通りだろうか。噂では貴方が品子に対して嫉妬の気持ちを起こしていると言うが。」

 ほとんど裁判官の尋問の様である。妻に対する言葉としては余りに情がなさ過ぎる。澄子はただ「はい」と静かに答えただけで何も言わない。

 冽は少し咳込んで、
 「何だハイだと、ハイだけでは分からないではないか。品子をねたましく思うか思わないかを聞いているのだ。」
 あんまりひどい聞き方だと思って澄子は少し声を震わせ、

 「ハイ、品子さんは、私の地位を奪って居ます。家の内のことも品子さんが指図し、貴方を動かすのも品子さんです。何事にも私を差し置いて出るのです。それを私が怒るのが嫉妬なら、ハイ、私は品子さんをーーー嫉(ねた)んでいます。」
 実に苦言とはこれである。澄子にしてこのような苦言を吐くに至るとはその情、察すべしである。

 妬(ねた)むとの一語をを聞き、冽は燃える火に油を注いだようである。
 「何だ、嫉(ねた)む、それもこれもすべて貴方が悪いのではないか。一家の主婦人として主婦人だけのことが出来ず、何事も人任せにしていて、そうして人が自分に代わってそのことをしてくれれば、自分の意気地の無いことは思わずに、かえってその人を嫉(ねた)むのか。エ、それだけならまだ我慢の使用があるが、その嫉(ねた)みを人前で、しかもこのようなパーティーの場所で現し、そのために一家にかかわる外聞の悪さが起こるのも顧(かえり)みないとは、余りのことで、エエ、もう堪忍も出来ない。」

 さも悔しげに舌打ちまでするとは、場合が場合だけに我を忘れて立腹が募ったものだろうが、一つは品子の毒舌がどれほど深く冽を捕らえたのか知るにも足るのだ。澄子は全く顔の色を失い、ただ、唇を振るわせるのみであったが、そのうちに深い深い覚悟が腹の底から起こって来た。

 「ハイ、何もかも全く私が至らないためです。自分の不行き届きなために、貴方にこうまでご立腹させ、もう重々済みません。これを思うと私の身はーーー今までのことが皆過ちでした。」

 「ナニ、今までのことが過ちとは、二人が夫婦になったことを言うのか。よし、貴方がそう言えば、止むを得ん、こっちもその過ちであったということに同意するほかは無い。」
 これは明らかに愛想をつかした言葉である。過ぎ去った結婚を取り消して夫婦別れをしようと言うのと大した違いは無い。

 今までいくら叱られても、こう夫婦の愛の全く尽きたような叱られ方に逢(あ)ったことは無い澄子は、結婚の前に冽に繰り返して言った言葉を思い出した。自分の身分が低いため、または、不行き届きのために、少しでも夫に後悔されるようなことが有っては、それが何よりも辛い。

 その様なことになれば、自分の気質として生きている気も無くなると、言いもし、思いもし、気づかいもした。きっと、その様な時が来るから、このまま分かれて、忘れるのがお互いの身のためだと、あれほど言ったのを、冽は何と聞いただろう。

 もう、忘れてしまったのかしら。覚えていて言うのなら、この身に死ねと言うのも同じ事だと、ほとんど愛も情もこの一言にかき消されて、心の底まで刺し殺された様な気がした。

 死ぬよりも辛いとはこのことだろう。冽は断固たる口調で、
 「よし、直ぐに処分する。一刻でもこのままにして置いては益々悪い噂が大きくなる。---」
 悪い噂とは、言葉もあるだろうに、余りに聞き難い言い様だ。

 「---品子をそれほどねたましく思うなら、直ぐに品子を英国に返してしまう。品子が居なくなればきっと良く主婦人の仕事が出来るだろう。知っての通り、この方は幼い頃から、一緒に育った女だ。その女に人の妬みなどを受けさせてはこちらが済まない。」
と妙にからんだ言葉を残して冽は荒々しく立ち去った。

 ともかくも一度言い出したことは、通さなければ気がすまない男だから、必ず、品子をも追い返すに違いない。澄子はわびもせず、止めもせず、後に残って気を失ったようになって、時の移るのも知らずにただその場にじーっとしたままで居た。

 およそ一時間も経ったであろう、同じ植物園の彼方から人の話し声が漏れてくるのに初めて気が付いた。一方は誰だか知らないが婦人らしい。一人は確かに品子である。

 「けれど、子爵夫人はなかなか活発な、良く気が利く方ではありませんか。日頃の貴方のお噂とは全く違っているように見受けましたが。」
 「ナニ貴方、あのような素性の女は、人に無礼なことをするのが、自分の見栄だと思っています。」

 「エ、素性とは」
 「アレ、まだご存知無いのですか。子爵の妻などになれるはずの身分では無いのです。」
 「そうですか。そう聞けばなるほどそうかと思われるところがあります。---ハイ、確かに有りますネエ」
 何事も人に調子を合わせるのが社交上の作法である。ことに他人の悪口には何はさておいても相槌(あいづち)を打たなければ成らない。

 「だから、私は冽さんが可愛そうです。初めの内はともかく、今では全く嫌になっていますから。」
 「それはお気の毒ですネエ、離縁すれば良いのでしょうに」
 「離縁も容易なことではありませんよ。貴方や私のような気質なら、少し夫の愛が足りない様に成ったと見れば、直ぐ立腹して自分から出て行きますが、身分が身分だから、箒(ほうき)で掃きだしたとて、出て行きません。」

 「なるほど、それでは始末が悪いですね。」
 「ですから、伯母にも何時も言うのです。何でも当人が死ぬまでは仕方がないと、ハイ、死ねば冽が初めて自由な身になるのです。」
 「死ぬまで待つのも大変ですネエ、けれど、もう、大広間へ行こうではありませんか。」

 澄子は二人が立ち去るまで聞き尽くした。



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