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野の花(前篇)

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トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳 トシ口語訳

野の花

           七 「早く驚かせて喜ばせて」

 どんな土産を持って来て、「驚かせて、喜ばせるのだろう。」二人は少しも見当が付かない。けれど、直ぐに、出発して帰るように書いてあるから、遅くても明後日の晩には分かるのだ。

 やがて、その明後日の晩になった。途中から出した二度目の手紙で見ると、日の暮れ過ぎには、家に着く筈だから、晩餐の用意を命じて母と品子は待ち受けている。食堂からは早や、「汁ものが冷めます。」との知らせが二度も有ったが、まだ車の音は聞こえない。

 品子は、前から良く冽(たけし)の好悪を知っているので、今夜は特に冽の褒めそうな衣服を着て、見違えるほど美しく飾っている。母親も賛成と見えて、「品子さんや、貴方はまず窓に寄って立っておいでよ。アノ子が帰らないうちに、着物に皺など付けてはつまらないじゃないか。」ほとんど、見合いの様な心と見える。

 そのうちに、犬が吠える声が聞こえ、次に車の音が聞こえ、間もなく冽がこの応接室に入ってきた。いつも機嫌の良い男だが、今日はとりわけ顔にうれしさが見えている。何でも、「驚かせて、喜ばせる積もりのために違いない。」と母親は密かにそう思った。

 冽は第一に母の所に来て親しげにキスをし、「どうも、この辺の汽車は時間が遅れて困ります。丁度三十分遅れました。」次に品子の方を見て全く妹にでも対するように、「オオ、品子さん、たいそう今夜は美しい。お世辞では無いが見るたびに美しさが増して来る。」勿論、親密な間柄から、褒められても赤らむほどではない。しかし、うれしさは見えている。

 「まあ見とれるのは後にして、食事が出来ているから、着物を着替えておいで。」
 「恐ろしく腹が減りましたからそうしましょう。」と冽は直ぐに立ち去ったが、十分と経たない中に一同は食堂に集まった。

 今に驚かせてくれるか、今に喜ばせてくれるかと、心待ちに待ったが、別にそのような様子もない。冽の方ではいささか言いそびれた感がある。

 初めの考えでは母の顔を見るやいなや直ぐに「お母さん、貴方にまた一人娘が出来ましたよ。」と言うつもりで来たが、品子の着飾っている様子を見て、このようなことは、あるいは品子が居ないときに言うのが良いかも知れないと、我が生涯の大事件だけに、一寸大事を取っただけに、言い出す時機を失したのだ。

 けれど、顔には依然としてうれしい様子が現れ、食事もいつもよりうまそうに見える。やがて食事も半ばまで行って、はしの運びも余り忙しくなくなったので、母親は口を開いた。

 「この子はまあ、旅行先がどのような所だったということさえまだ話さないが、時之介とやらの父親は、わざわざお前から見舞いを受けて、非常に喜んだだろうねえ。田舎代官とは言えば、貴族の見舞いなど受けた事がない、定めし貧乏人だろうから。」

 末の一句は少し冽の癪に障ったが、怒るようなことはしない。「それはお母さん、どうせ大金持ちでは有りません。けれど、天然の紳士、そうです、天然の善人です。誰に見られても、恥ずかしくないように極、潔白に暮らしています。」何となく弁護の口調である、と品子は無言であったが感じた。

 「でも、妹があるとか言ったじゃないか。妹はどのような女だえ。」
 「ホンの小娘かと思っていましたが、思ったよりはーーー大きいのです。なかなか美しく、背なども丁度品子くらいです。」
 品子は疑うような目で一寸冽の顔を見たが、冽は静かにうつむいて皿の中の肉を切っている。

 何しろ、母親が期待していたより無口で、余り面白くもなく、食事は済んだ。そうして、一同、元の応接室に帰った。普段ならば、これから雑談が口を衝いて始まるところなのに、何の話しも始まらない。妙に何か陰気に傾きそうだ。

 母親はしばらく待っていたが、冽が何も言い出さないので、「先日の手紙では、帰れば驚かせて、喜ばせると有ったが、早く驚かせておくれ。品子も私も楽しみに待っていたのに。」

 冽は急に微笑み始めた。もし人間の顔が笑みのため崩れるものなら、このようなのが真に笑み崩れたのだろう。顔中ニコニコとして揺らいでいるがまだ何も言わない。「何だよ、この子は、一人でうれしそうに笑ってばかり居ては、分からないではないか。」冽はようやく語を発した。

 「はい、早くお話申そうとは思いましたが、ーー」
 「オヤオヤ、品物ではなくて、お話にするものなの。」
 「実はそうです。主に私の一身についての事柄です。」
 「とは、何」

 「かねてお母さんに早くせよ、早くせよと言われて居た事柄です。あのー妻を迎える事になりました。田舎でこの女ならと思う女に出会ったのです。」
 母親は顔色を変えた。
 「エ、他人を妻に」とはまた変わった問である。

 他人でなくて自分を妻に出来るものか。母親の心はきっとこの品子よりほかの者をかと問うのだろう。品子はそばにいて、一言も発せぬ。ただ指先の爪が手の平にめり込むほどに、テーブルの下で堅く手を握っている。

 冽はこれだけのきっかけができると、後は勇気も付き、極真面目に、
 「はい、実は私も意外です。今まで愛などと言うことは生涯知らずに過ごすだろうと思っていましたが、愛せずにはおれないほどの、顔も心も美しい女に会ったのです。」

 母は全く驚いた。けれど少しも喜びはしない。ただ、膝をせり寄せて、低く、そして早い言葉で、非常な戒めを伝えるように、
 「コレ、冽や、貴方は自分に恥じるような卑しい女を見初めたのではあるまいね。子爵瀬水家と言えば誰も尊敬しない者は居ない。この家から申し込めばどこの公爵でも、喜んで娘を嫁にくれる。エ、身分の低い相手ではあるまいね。」

 冽はほとんど勇気が尽きた。けれど、このまま止むことではない。
 「勿論、お母さん、公爵の令嬢ではありません。しかし、どうか失望なさらずに、私の生涯の幸福ですから、ハイ、どうかうれしいと言ってください。誰にも恥じる所のない、正直な、紳士の娘ですから。陶村時之介の妹、陶村澄子と言う者です。」
 母はウーンと気絶せぬばかりである。

 「アア、貴方はまあ、よくもこの母に失望させてくれた、エ、田舎代官の娘、田舎娘、それを聞いてこの母が年来、ああよ、こうよと心配した事も水の泡になりました。大変な罠にかかったねエ。」
 言葉もあろうに「罠」とは何たるさげすんだ言いようだろう。

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