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野の花(後篇)

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ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳   トシ 口語訳

野の花

    七十二 「不思議な対面」

 「子爵夫人がお見えに成りました。」
 声は優しい女子の声でも、河田夫人の耳には剣の刃の打ち合う音のように聞こえ、腰掛けていた椅子から我知らず立ち上がった。けれど、まだ立ち上がるには及ばないと思い直し、又腰を下ろした。胸は波の打つように騒ぎ、動悸の音が自分の耳に鳴り響くように聞こえる。

 夫人の胸の様は、一々書き分ける事は出来ない、様々な思いが行き交って、つむじ風の巻くように、掻(か)き乱れている。その中には、もしや自分の姿が見破られはしないかという心配もある。

 けれど、好く考えてみれば、これは安心だ。この学校の校長さえ、昔私に両二、三度は会った人で、今も私のことを誉めているのに、少しも怪しむところがなく、今の私と昔の私とに、露ほども似かよっている所があるとさえ言わない。

 まして、我が身を深く憎み、私がこの世に無くなることを祈っていた品子の目に、見破れるはずはない。又中には、何と挨拶して好いか、どのように迎えればよいか、との心配も混じっている。前から、この辺のことも考えはしたけれど、今だに、考えが決まらない。

 何でも、ただ神の助けを念じて、気を確かに持つのが一番だとは思うが、気を確かに持つのが何より難しいのだ。
 この様な時に、心が動くのは、実に電気より早い。それからそれへと移って行く。

 さて、この前の一番終わりに、品子に会ったのはどのような時だったろう。そうだ、イタリアの別荘の夜会の晩であった。わが夫と品子とが、踊り疲れ、手を引き合ったままで、庭に出て来て、木の陰で、情人同士も及ばないほど、嬉しそうに語り合っていたのだ。

 この様子を見て、自分は死ぬつもりで自分の居間に行き、その時限り、今まで顔を合わせていないのだ。こう考えてみると、その時の品子の様が、幻灯機《スライド》の絵のように目前に掛かり、教室も生徒も何も見えない。

 そのうちに馬車の音は、この学校の玄関まで来て留まった。顔を上げると、この様子はよく見える。馬車には我が家、我が夫の家、瀬水家の紋が付いている。我が馬車に付けたのと同じ紋だ。御者も古くから努めていて、我が馬車を扱ったのと同じ男である。しばらくすると、中から誰やら立ち出るようである。けれど、こればかりは、見る勇気が無い。

 出迎えなければならないかも知れないが、ほとんどその所に、釘付けにされたような思いで、行くこともできない。空しく悶える間に、時は遅れ、早、品子がこの教室に入って来た。
 「子爵夫人がお出でになりました。」
との声が再び生徒の口から聞こえた。

 昔、単に品子嬢とのみ呼ばれた時と、今の有様とは何たる違いだろう。その頃はただ派手を好み、目を突くように、美々しく着飾っても、ただ安っぽく見えていたが、今は、これ以上に金の掛けようが無いと言うほど、衣服全体に贅沢が現れている。顔はその頃より太って、或いは美しさは減ったかも知れないが、その代わり一種の満足に絶えないような光が添えられて、照り輝いている。

 実に出世とは恐ろしいもので、目付きまで違ってくる。元は人を見れば、何か羨ましいという心が先に立ち、羨んでも到底及ばないと言う失望から、それが一種の嘲(あざけ)りと変じ、何と無く目の底に貧しいところがあった。

 それが今は、誰をでも眼下に見る癖が付き、羨むのが変じて、誇る様となり、いやが上にも、自分の身を勿体らしく、慈悲のない目を、慈悲ありげに見せようとしている。

 言わば小さな鷹が、大きな鳩に化けたようなものだ。世間では、これを、自然に位が備わったと言うそうだ。 河田夫人はこの様なことを、総て見て取ることは出来なかったが、早や、品子が我が前に、貴婦人然と身を引き延ばして、立ったことを知った。

 本当に一時は、このまま我が身が、尽きるかと思うような気がして、身動きも出来なかったが、又も、品子に見下ろされるかと思うと、悔しさに、普段は出ない力が出て、非常に静かに立ち上がった。青い顔は依然として青く、弱そうに見える姿は、依然として弱そうである。

 品子はこの時、あたかも、馬が後足で、ハエでも追う時のように、自分の裳裾を軽く跳ねた。そして絹の音をサワサワと聞かせた。目下に向かえば先ずこの音で、身分の違いを思い知らせて置くのが、貴婦人の駆け引きかも知れない。

 やがて、この二人の女、立ったままで顔と顔を見合わせた。この時又も、河田夫人の方は、気が落ちかけたけれど、必死の思いで取り直し、別に眼を伏せもせず、ジッと品子の顔を見直した。

 実に不思議な対面である。この様な場面は、広い世の中にも、又と有ろうとは思われない。一人は本当の子爵夫人であって、雇い人の地位に萎縮し、一人はその実、私通者であるのに、そうとも知らずに、子爵夫人の地位に、威たけ高になっている。妙も妙、奇も奇。



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