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野の花(後篇)

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ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳   トシ 口語訳

野の花

     七十七 「天地も無く世界も無く」

 何処までも他人として、我が子に会うとは、実に辛い。会わないうちは、少しの我慢で出来ることのように思ったが、会って懐かしい顔を見ては、どうしても他人らしくしていられない。

 真に必死の思いである。河田夫人は胸の騒ぎに身も動揺し、立って居ることも出来ない。しっかりと両手に門の閂(かんぬき)をつかんで、ようやく倒れるのを防いだ。

 「オオ、我が子か、良彦か。」
 この一語を、我知らず発しようとして、口は開いた。けれど、声は出ない。又出してはならない。ここが耐えどころだと、ほとんど閂(かんぬき)をつかみつぶすほどにした。そして、眼は、生涯絶対に離れないぞと言う様に、良彦の顔に注いだ。

 昔アルノ河畔の別荘で、これがこの世での見納め、会い納めと言って、その寝顔を見て別れた時とは、別人かと思われるほど、姿は成長して居るけれど、面差しには、見間違えることが出来ないところがある。

 父なる冽にも似たところが有って、母なるこの身の古い写真にも良く似て居る。そして、その頃は別に気も付かなかったが、成長したせいか、かってインドで討ち死にをした、我が兄、陶村時之助にも余ほど良く似たところがある。

 これを思うと、一身の愛も、夫を思う心も、ただ、この良彦の身に凝り集まり、少しもほかの事を思う余地は無い。このように可愛いのに、母子の名乗りさえ出来ないほどなら、なぜ早く良彦の馬の蹄(ひずめ)の下に身を投げて、踏み殺されてしまう心が、出なかったのだろう。

 良彦の足の下に死ねれば、生きてこの通り、いたずらに悶え悩むより、どれほど嬉しいかも知れないと、このような愚痴な心まで起きた。

 良彦は、この夫人が何者ぞということには、少しも疑いを挟まない様子である。勿論、挟さむはずも無いのだ。そして、鞍(くら)の脇に結んだ、一束の花の枝と、外に二、三種の果物とを取りおろして、
 「子爵夫人が、これを貴方のところへ、持って行けと言われました。」
と言葉と共に差し出した。

 河田夫人は紳経が、何時静まるとも分からないくらい、高く上って、総身に一種の痙攣(けいれん)を起こしたのか、何とか言いたくても声が出ず、又、言うべき言葉をも知らない。やっとの思いで、手を出したけれど、その手は、わなわなと震えていた、

 良彦は、この様子を見て、なんだか異様な、何だか無言な、そして、何だか神経質な夫人だと思った、けれど、頭にやもめの頭巾をかぶっているところを見れば、きっと深い悲しみのためだろうと、子供ながらに合点した。

 しかし、この炎天に少しの休息もせずに、このまま又立ち去るつもりは無い。特に、前任の柳川夫人の頃には、この家が、良彦の散歩に出る度の小休憩所のようになっていたので、
「この門に馬を繋(つな)いで置き、少し中に入って休んで行きましょう。」
と何の遠慮も無しに言った。

 夫人はまだ言葉を発しない。
 良彦;「けれど、あまり甘くして下さってはいけません。前の柳川夫人も、あまり良彦を甘やかすから仕方が無いなどと、時々子爵夫人に言われました。私はただ水を一杯頂いて、休めば好いのです。」
 屈託も無く、思うままを言い出す言葉に、河田夫人はようやく口を開いた。

 「水よりももっと好いものがあります。」
こう言って、一緒に家に入った。いかにも良彦は、―――この家に慣れていると見え、全く我が家にでも歩み入るような調子で、心もおかずに座に上って、先ほど品子夫人が腰掛けたその椅子に身を寄せた。

 こうなると河田夫人は何となく嬉しくて、騒いでいた神経もいくらか静まりかけ、いそいそと勝手のほうに行って、ラムネと房々した葡萄(ぶどう)とを持って来た。

 そして、ラムネをコップに注いで出すや否や、良彦は一息に飲み干して、
 「アア、水よりよっぽどうまい。」
と笑み、更に葡萄に手をつけたが、たちまち思い出したように、

 「こう食べては、貴方の上がるのが無くなります。」
と初めて少し気兼ねの様子が見えた。河田夫人はあわてて、
 「イエエ、まだ沢山に生徒の父母から贈られたのが有りますから。」
と打ち消した。
 そして、夫人は良彦がうまそうに食べ始める様子を、全く我を忘れて眺めている。

 口の動くところから総ての様子が、いくら見ても見飽きないので、真にうっとりと我を忘れて、見ほれているばかりだ。何という可愛い子だろう。何という立派な姿だろう。今にどのような人になるのだろうなどと、それからそれへただ関心の思いのみ続いて出る。

 全くこの少しの間だけである。夫人が身の憂きを忘れて、辛いことも、悲しいことも何にも知らないのは。
 しかし、何にも知らない裏に、又無限の欲が有る。良彦の頭の毛のつやつやしいのを見ては、昔、撫(な)でさすったように撫でさすって見たくて、ほとんど、指先がムズムズする。その美しい頬を見ては、幼いころのように、我が頬に押し当てて見たい。

 これが真の恩愛の欲と言うものであろう。この心のために、一時は全く我が魂が、良彦の身に移ってしまったようになった。目にも耳にも良彦の外には何も無い。

 天地も無く世界も無く、この世もわが身も無い。有るのはただ良彦である。



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