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野の花(後篇)

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ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳   トシ 口語訳

野の花

     八十二 「春の朝(あした)と、秋の夕べ」

 何不足無い瀬水城の主たる人が、何のためにこうも悲しそうに、こうも衰えたのだろう。この身に分かれて心の引き立つ時も無く、人知れず苦しみ悩み、長く味気ない世を送っているためである。

 その締まった口元は昔、私に夜と無く日と無く、愛(いと)しい言葉を繰り返した、同じ口元ではあるけれど、その形容は何と言う相違だろう。再び人に対して、嬉しい笑みをたたえそうには見えない。

 ふっくりとしていた頬も活気無くしなびている。昔の瀬水冽に比べて見れば、日の麗(うら)らかな春の朝(あした)と、物寂しい秋の夕べほどの違いがある。

 もし、私がそばに居たならば、これほど陰気な人にはならなかったのにとの感じが、短い間にひしひしと河田夫人の胸に迫って来た。

 果たして愛の情が消えたのではない。形を変えて潜んでいたのだ。もしこの上に今一入(ひとしお)夫人の心を動かすようなことが有れば、或いはその愛が昔に勝って燃え盛るかもしれない。

 私がそばに居たならばとの思いに続いては、又自分の行いの良し悪しをさえ疑う心が起こった。あの時はただ夫のためとのみ思い、こうすれば必ず冽の身が楽になると思ったが、果たして私の家出のために、冽の身は楽になっただろうか。

 大いなる嘆きと大いなる不幸との元になったのでは有るまいか。夫の身に嘆きや不幸を重ねさせるようなことをしでかし、それで女の道が立つだろうか。どう考えても、心の澄まぬことばかりである。と言って後妻まで出来た今、今更取り返す道も無く、考えるだけ無益である。

 夫人の心が様々に馳せ迷ううち、冽は自分がここへ来たのが、どうもこの夫人に喜ばれないように感じ、眠っているものを出し抜けに驚かせたのだから、喜ばれるはずが無いとこのように思った。

 出直してまた来るとも、ここは一旦切り上げようと思い、
 「では、差し当たり、ここが不自由と言うような事柄もお有りなされないのですか。」

 夫人は相変わらず心配そうに、
 「ハイ、何も有りません。」
 冽;「もしあれば、心置きなく子爵夫人に言ってくださるように。」
と言いかけたが、この時初めて夫人の前に開いてある書物がただの品でないことを見て取った。

 「オヤ」と言って急に眉をひそめ、
 「失礼ですがこの書は。」
と手に取上げた。河田夫人は異様に心が動き、
 「ハイ、先だって、子爵夫人から送ってくださった中の一冊です。」

 冽;「イヤ、それなら何かの間違いで紛れ込んだのです。この書は家から外に出すべきでなく、私が大切にしているのです。」
 さては冽が手ずから選り分けたと品子が言ったのは偽りである。

 品子が今もって私への嫉妬から、この書まで煙たく思うのは、怪しむに足りない。それがために、他人に対して偽りを言い兼ねないことも、日頃の気質から分かっている。

 これで見ると、夫が私の形見を粗末にするの、私の記憶までその家から払い出そうとしているの、と言うことは少しも無い。
 無いばかりか、ここで一目見てさえ、気が付くほどであれば、私が居無くなって後も、この本を一方ならず珍重したことが分かる。

 ただ短い一語ではあるが、夫人の身には、死刑の覚悟をした囚人に無罪の宣告が下ったような思いがある。恨む心は一時に消えて、血の気の無い頬がパッと紅くなった。

 冽はなおも言い続け、
 「ワーズ・ワースの詩歌書を貴方が愛読なさるなら、表紙は違っても同じのがありますから、送りましょう。この一冊は私が頂いて帰ります。」
と言って返事も待たずにポケットの中に納めてしまった。

 その仕打ちに、澄子の遺愛の品がしばしでも我が手元から離れたのを痛く腹立たしく思う様子が分かる。河田夫人はこれを見て冽の首にすがり付きたい様な気がした。

 勿論、夫人はその素振りをはしたなく現しはしないが、自ずから何処かに分かる所が有った。冽はちょうど良彦が別れに臨んで夫人の顔を怪しんだように怪しみ、

 「オヤ、貴方のお顔を見ると、失礼ながら何だかお目にかかったことが有る様な感じが致します。ハテな、何処でお見受け申したでしょう。」

 河田夫人は良彦に言ったように、
 「他人の空似」
と軽く言い流すことはできない。何気なく笑い消そうとしたけれど、その笑みさえ思うように浮かんで来ない。

 「何処でお見受け申したでしょう。」
とは実に情けないほど、他人らしい言葉である。人間の愛情の、頼りないと言うことは、この一語で分かり過ぎるほど分かる。

 何処でお見受け申したのではない、生涯変わらぬ誓いを立て、五年も七年も夫婦となり、その間に子までも設けたのだ。そればかりか、こっちはただ、その人のために家も身分も我が子も捨て、命まで捧げたつもりで、死人同様の境涯に入っているのだ。

 単にお見受け申したと疑われるだけに留まるとは、はかないとも何とも言いようが無い。
 けれど、河田夫人の答えは簡単である。

 「ここに来ましてから余り外に出ませんから、別にお目に触れた筈は有りませんが。」
 冽は腑に落ちないように考えながら、
 「そうでしょうか。ともかく、明日この詩歌集の別の版で出来たものを良彦に持たせて寄越しますから」
と言って眉をひそめたまま立ち去った。

 彼の姿が見えなくなると、夫人は急に世界が暗くなった様な気がして、今までに無い寂しさを感じた。



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