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野の花(後篇)

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ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳   トシ 口語訳

野の花

        八十四 「眼鏡越しに目と目が」

 冽がどれほど品子を愛しているだろうと、河田夫人は夫婦の様子へ気を付けるとも無く気を付けた。

 自分が冽の妻だった時と、大変な違いが有る。自分と冽との間が不和になっての後は、ともかくも、その前は、冽の挙動に愛がよく現れていた。何処へ行っても冽は私の手を携えた。私の手が冽にすがっていさえすれば機嫌がよかった。少し離れても、直ぐに影身を追うような趣があった。

 勿論、この身の不行き届きを叱りなどもしたが、しかる中にも情があった。一言の言葉でも、愛のこもらないものは無いように思われた。ところが今、品子に対してはそうではない。

 何処までも丁寧と言う一方で、愛すると言う様子は見られない。言葉を交えてもほとんど他人行儀である。そうして、品子は品子、冽は冽で、別々に客をあしらい、あえて、品子の手が自分の腕にすがっていなくても、物足りない風には見えない。

 昔は私が冽の妻であった頃の冽と品子との間を考えて見ると、今頃はよほど親密でなければならないのに、はてな、私が嫉妬を起こすほどのことは無かったのかしら。イヤ、そうではない、そうではないが、どういうわけかで冽の愛がさめたのでもあろうか。

 冽のそばには何時も良彦が付いている。イヤ、冽のほうが、ほとんど良彦を我がそばから離さないほどにしている。人と話をする間も、いずれか一方の手が、絶えず良彦の体を求め、或いは良彦の方の辺にもたれているとか、或いは頭の辺をなでているとか、まるで、良彦に離れては、手持ちぶたさに耐えられないとでもいった様子である。

 親として子を愛するのは当然ではあるけれど、当然よりもその情が細やかだ。これで見ると、冽は品子に分かつべき情けまで、分かちはせずに私が産んだ良彦に集めていると見える。

 このように思うと知らず知らず、余計に冽の顔を見るようになる。ちょうど、その見ているときに、冽もどう言う弾みでか、こちらを向き、河田夫人の顔を見た。

 夫人は眼鏡をかけているけれど、眼鏡越しに目と目が合った。夫人はハッと思って青い顔を紅くした。この様子は冽も認めた。そして、なぜ顔を紅くしたのかと、少しの間だけれど怪しんだ。とは言え、ことも無くこの日は過ぎた。

 これから間もなく品子は病気にかかったらしく、何となく気分が優れないと言うことで、或る温泉場のそばにある別荘に転地することとなった。これは医師の忠告が有ったので、勿論、冽も一緒である。

 「間もなくその転地先で、病がだんだん重くなって、品子は遂にこの世を去り、再び河田夫人が子爵夫人と言う元の身分に戻ることになった。」
とこう書けば読者の多くは喜んで目出度しと言うだろうが、兎角世の中のこと、小説の様にそううまくは行かない。

 転地先でどのようなことがあったかその便りは、分からないけれど、逗留がなかなか長い。夏も秋も過ぎて、その冬のクリスマスとなった。

 この時初めて品子から手紙が来た。それは年々クリスマスの日には、領地の貧民に品物を恵んでやるのだが、今年は帰ることが出来ないのでどうぞ、河田夫人の手でそれらの品物を施与してくれと言う頼みだった。

 河田夫人は頼まれたとおりに行った。けれど、品子の容態などは、手紙の上では少しも分からない。そのうちに翌年となり、又夏の初めとなったが、遠からず子爵夫婦が御帰還なさるとのうわさが、風の便りで河田夫人のもとまで聞こえてきた。

 瀬水城の留守居の者等は何時お帰りになっても差し支えないように、勿論、それぞれの用意を運んだ。


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