nonohana94
野の花(後篇)
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ミセス・トーマス・ハーデー著 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
野の花
九十四 「阿母(おっか)さんに似た女」
実に河田夫人は早く逃げ出したい、けれど、良彦が中々放しそうもない。
良彦;「ねえ、善い人は早く死ぬと言うでは有りませんか。僕の阿母(おっか)さんは今の世に二人といないほどの善人だったから、神様が長く人間の世に出しておくのはもったいない者だとして、それで早く天国に呼んだのでしょうねえ。」
天国どころか、地獄にも無いほどの、辛い責め苦の中に落ちて、まだ人間の世を去ることが出来ないのだ。本当に死んだ後と言っても天国に行ける身か、行けない身か、この魂のある限りはこの責め苦から逃げることが出来ようとは思われない。
けれど良彦がそれとも知らず、私の前身をこのようにまで思っていることを思うと、意地悪い品子さえ、最早死んだと思っている私のことを、悪く言わず、何処までも善人と思わせていると思われる。これだけは有り難いような気がする。
前から私が時々危ぶみもし、気づかいもしたのは、もしも、私がまだ生きていることが発覚したなら、夫や良彦が何と私のことを思うだろうと言う疑問だった。
夫は私のことを、執念深い悪い女だと心の底から罵(ののし)りはしないだろうか。良彦は又、その様な訳の分からない母であったかと、後々まで人に対して、母のために赤面するようなことには成りはしないだろうかと、このように心配した。
勿論、最早、露見などと言うことは万に一つもないけれど、兎に角、私を母として恥ずかしくない女と思い、今もって人に誇るほど敬っていてくれるのは、先ず有り難いと思わなければならない。
良彦は夫人の返事を促すように、
「この肖像を見ただけで、善人と分かってくるでしょう。このような人が、天国に行かないはずは有りませんよねえ。」
夫人は気がとがめて、「ハイ」とは言えない。
「それは神様でなければ分かりません。」
良彦;「でも夫人、僕が阿母(おっか)さんを慕うのは無理も無いとお思いでしょう。このような阿母(おっか)さんですもの、慕わずには居られましょうか。」
問う心根の不憫さに、夫人は今更では無いが、胸がふさがる思いがする。
「はい、お慕いなさるのはもっともだと思います。」
この返事に力を得て、
「僕はね、阿母(おっか)さんに似た女が何処かにいないだろうかと、何度も思いましたが、この頃は貴方が実に良く阿母(おっか)さんに似ていると思いますよ。」
夫人はびっくりして、
「エ、何とおっしゃる。私などが貴方のお母さんに、どうしてお似申すことが出来ましょう。その様な詰まらない事は言わないものです。」
良彦;「イエ、何処だか似ていますよ。親切で、そしてさっぱりしていて、いろんなことに気をつけてくれたりして。」
夫人;「貴方には誰でも親切にするのでしょう。」
良彦;「同じ親切でも、他人のような親切と、阿母(おっか)さんのような親切とは違いますよ。」
夫人はいよいよ長居をしてはならないと思った。けれど、後ろ髪を引かれたようで、振り捨てて立ち去り難いところがある。
良彦;「サア、これから美術室を見に行きましょう。」
夫人;「イイエ、今日はもうお母さんの肖像を拝見しただけで沢山です。そのほかは別な日に拝見することに致しましょう。」
こう言ってようやくここを切り上げた。そしてこの家を出たけれど、余に心が騒いでいて、直ぐに家に行くことは出来ない。しばらく公園に入り、木の茂った間に隠れ、泣いたり独り言を言ったりして、神経の静まるのを待ち、日が暮れてから、家に帰った。
* * * * * *
瀬水城では、この後も、冽と品子との間に、時々河田夫人の噂が出たが、両人とも夫人の物静かな柔和なところを褒めるのは一致している。中でも冽は、
「確かにどこかで見た婦人だと思うけれど、どうも良くは思い出せない。」
と言い、
「貴方はそう思わないか。」
と品子に問うたけれど、品子は、この点には一致しないから、更に母御に向かい、
「貴方はどのように思いますか。」
と聞くと、
「思い出せない者を強いて思い出すことは無いでしょう。」
と母御は母御らしい返事であった。
これは、河田夫人が来た数日後に三人が一緒になった時のことであるが、いかにも母御の言う通りである。思い出せない者を強いて思い出すには及ばないから、成るほどそうだと冽も、それきりその思いを捨ててしまったが、
もしもその思いを捨てずに、思い出すまで考えたなら、それこそ大変なことが起こっていただろう。とは言え、似た者は何処までも似ているのだから、ここで思い出さなくても、又思い出すような変わった場面が自然に出来て来はしないだろうか。
それはこの後の「月日」(タイム)というものに問うより外は無い。