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野の花(後篇)

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ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳   トシ 口語訳

野の花

       九十六「付上がるにも程がある」

 表情を変えて良彦は品子の前を去った。そして自分の書斎に籠(こも)り、子供ながらホロリ、ホロリと悔し涙を流していた。
 『雑種児』(あいのこ)などとは人に対して言うべき言葉ではない。それを品子は良彦に言ったのだ。

 何ゆえに雑種児(あいの子)であるか、もし、良彦が十分にこの言葉の意味を解すことが出来なかったら、この言葉がいかに侮辱に当たるものでも、そうまでは感じなかったかもしれないが、あいにく、良彦は品子がこの語に込めただけの意味を総て知ることが出来た。

 今まで、誰も良彦に向かって、母澄子の素性やそのほかのことを話して聞かした者は居ない。まして、澄子と品子との間が、一方なら無い不和であったことなどは、ほとんど当人同士意外は知らないほどの事柄なので、良彦の耳に入れたものは決して居ない筈だ。

 けれど、良彦は薄々知っている。多分は品子の今までの素振りや言葉の端に現れる意味などで、徐々に察したのであろう。それだから、『雑種児』という語を聞いて、直ぐに、我が母が爵位(しゃくい)のある家の娘ではなかったことを指し、有爵者と無爵者との間に生まれたという意味だろうと感じ、ただ自分ひとりが侮辱を受けたのではなく、死んだ母まで辱(はずかし)められたものと思った。

 自分だけなら耐えもするが、母まで悪し様に言われては、どうしても我慢ができない。
 これは明白に父に訴え、裁判をしてもらう以外に無いと思い、父の部屋に駆けて行った。けれど、父は居ない。或いは馬でも見回っているのかと更に厩(うまや)の所まで行って見たが、、馬ていの言葉で、父が遠乗りに出かけたことを知った。

 遠乗りといえば、日が暮れるまでは帰らないだろう。それまでの間が、身の置き所が無いような気がする。再び自分の書斎に帰っても胸の中が治まらない。このような時には河田夫人を訪ねる以外はない。もとよりこれを夫人の耳に入れる積りではないが、兎も角、親切な夫人の耳に入れれば、いくらか心が休まるのだ。

 夫人は日頃良彦にどのようなことを話して聞かせるのかと言うと、多くは昔の英雄や賢人の言行である。それも、真に母親の心情を持って話すのだから、良く良彦の耳に入り、非常に大きな教訓となるのだ。

 後年良彦が一個の人物として社会に立つべき性格が、このような間に、知らず知らずのうちにこの夫人の手で作られて行くのだ。恐らくは学校よりも家庭よりもこの夫人の薫陶が良彦の根本の資材をこしらえることでは、最も力があるのだろう。子供はどうしても、良き人の良き影響でもって根本の性格を作ってやらなければならない。

 それはさておき、良彦は直ぐに夫人の所に行った。夫人はたちまち様子を見て良彦の心に非常に大きな苦悩の有るのを察した。そのもだえ苦しみが何であるかと言うことが分かり、十分にそれを慰めてやるまでは、夫人の心が義彦よりも苦悩に耐えられないのだ。

 夫人は様々に言葉を回して、なだめるようにして、問い試みたが、勿論、父の次には、この夫人を頼りにしていることと言い、かつは、心に満ちている不平だから、長く隠していることが出来ずに、終に事の次第を打ち明けた。

 ただ自分が雑種児と言われたことだけは、これを自分の口から出せば、自分で自分を辱めるような気がして、まさか言うことができなかったけれど、一度話の糸口を切れば、そこは子供だ、それからそれへと今まで胸に畳んでいたことを、話し出した。又、夫人も品子がこの子を、どのように扱うかと、日頃気遣ってばかりいるのだから、それからそれと良く聞くのだ。

 良彦の言葉が進むに従って、夫人は自分のことのように感動し、はては、全く顔色を変えた。その様子が真実心の底から悔しそうである。良彦は河田夫人がこれほど悔しがる様子は今まで見たことが無くほとんど、怪しいほどに感じた。

 夫人は聞き終わって我知らず言葉を発し、
 「人の子を好い加減にいじめるが好い。何処までも無言でいるかと思い、人の我慢に付け上がるにも程が有る。」
と叫んだ。確かに夫人の心中、この上なおも良彦をいじめるなら、自分の素性を表して、品子に憂き目を見せなければならないとの意が、一時だけれど動いたのだ。

 この深い同情に良彦は大いに気が休まり、
 「貴方がその様に言ってくれると僕は辛いことを忘れます。」
と言った。けれど、まだ悄然(しょうぜん)として、
 「他人の貴方でも、これほど慰めてくれますもの、本当の僕の阿母(おっか)さんが生きていたらどうでしょう。僕はこればかりは品彦をうらやましく思います。瀬水城の相続人だと言われても真の阿母(おっか)さんが無くて、何になります。真の阿母(おっか)さんさえ有れば、瀬水城など捨ててしまっても惜しくは無い。」

 何たる哀れむべき思いだろう。夫人はもう、他人のままではどうしても聞いていられない。抱き上げて自分の素性を話したいと言う気持ちが、すさまじい勢いで胸の辺りまで突いてきた。これをもし我慢したら発狂もするだろうと自分で自分を心配したほどだ。



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