nonohana99
野の花(後篇)
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ミセス・トーマス・ハーデー著 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
野の花
九十九 「自分の家に帰った積もりで」
河田夫人の承諾の意を聞いて、冽はうれしそうに、
「どうか瀬水城へ行ったら、貴方は自分の家に行ったつもりで、イヤ遠慮には及びませんから、自由に女中などをお使いください。
総て貴方の指図に従うように、私から一同の者に言い付けて置きますから、それに良彦の病室には、家の奥の静かなところにある「梅の間」というところを当ててあります。梅の間には二つの小さな別室が付いていますから、それを貴方の部屋となさってください。」
落ちも無く行き届くのは昔に変わらない我が夫である。夫の家は即ち我が家、その我が家に我が子を看病に帰って行くのに、ことさら「自分の家に行った積もりで」と言い添えられるのは、これも河田夫人にとっては、愚痴か知らないが、涙の種である。
冽は自分の心配事に河田夫人の様子も見ず、首を力なさそうに下げたまま、
「どうか良彦は貴方の及ぶだけ手を尽くしてください。いや、手を尽くしても、もう無駄かもしれませんが」
夫人は悲しい中にも一方なら無いこの落胆の様子が心底から気の毒になり、
「子供というものは案外に壮(さか)んなところが有り、医者が見放(みはな)した後でも、介抱のため持ち直すことがあるものです。」
とようやく慰めのような言葉を言った。
冽はこの言葉にもなかなか引き立ちはしない。深い深いため息もらして、
「イヤ、あまり私があの子を可愛がるものだから、天が私を懲らしめるため、彼を奪うのかも知れません。」
と言い、その後は独り言のように、
「アア、私はどう考えても、あのような良い子を授かっている値打ちが無い。彼はあの母親に相応した天の恵みで、私が授かったのではない。私には良すぎるのだ。やはり天が母の元に呼び寄せているのだ。」
顔に手を当てて、泣いているのかと思われるようで、つぶやいているその一語一語がことごとく河田夫人の耳には聞き取れないが、しかし、充分冽の心中を推量できるだけは聞き取った。
冽は確かに私のことを思い出し、そして自分の振る舞いに落ち度があったこと悔やんでいるのだ。これを思うと河田夫人の心も異様に和らぎ、和らぐと共にまた一段と悲しくなり、冽の足元に身を投げたいような気になった。身を投げて自分のこれまでを打ち明けたい。
もし、この上五分間も冽と差し向かいでいたなら、耐えられずに泣いて自分の素性を話すことになるところだ。実に危険千番な場合である。河田夫人は全くその危険を悟った。
何が何でも自分の素性を悟られるような事柄をしでかさないうちに、冽のそばを離れなければならないと思い、ほとんど逃げるような心地で、
「ではお先に私が瀬水城に参ります。」
と言った。
その声にか、その言葉付にか知らないが、どこにか冽の耳に聞きなれたところがあるような気がした。冽は驚くように顔を上げた。けれど早や河田夫人の姿は見えない。
河田夫人はただひた走りに瀬水城を目指して走った。この前良彦に連れられて行った時とは大違いである。アノ時は道にある一木にも一石にも過ぎたことを思い出したが、今は心に他のことを思い出す余地が無い。心の九分までは良彦のことに満ちて、残る一分が冽のことにふさがれている。
やがて瀬水城には着いた。先ず家事の万端を取り仕切っている老女の部屋に行くと、老女は待っていて、良彦のおおよその様子を話した。良彦がどのような看護婦にも一向になじまないこと、病気が日に日に重くなること、絶えず河田夫人と死んだ母とを懐かしがり、時々うわごとのように呼ぶこと。今までこの老女が自ら付いていて、今しがた食事をすすめたが一口も食べないことなど、耳新しいというほどではない。
河田夫人は聞き終わって少しためらうふうに、
「それで、子爵夫人はこの病気をお悲しみですか。」
品子が良彦の病気をどのように思うかは、聞かずにはいられないところである。
老女;「はい、悲しんではおいでの様子ですが、どうしてもご自分の腹を痛めたお子様ではありませんので」
これも、口ごもりながら言ったが、短い言葉のうちに品子の冷淡な様子が見える。これにつけても、河田夫人の熱心は増すばかりだ。
老女はなおも、
「どうしてまあ若様が、あのように貴方をお慕いなさるか、私たちは不思議に思っております。」
と言ってこのような危急のときにもそれとなくその理由を探そうとするのは、ほとんどこのような老女の特性と言っても良い。けれど河田夫人はそれドコロではない。
「何度も私のところに遊びに来た為でしょう。」
と簡単に言い退けて立ち、
「本来ならば先ず子爵夫人にお目にかかるべきですが、良彦さんがそんなに私をお呼びなさるなら、直ぐに梅の間に参りましょう。子爵夫人には手の空いたときにお目にかかりますから、貴方からよろしくとおっしゃっておいて下さい。」
と言って、この部屋を歩み出た。
今はこの前に来た臆病な学校教師では無い。一途にわが子のことを思う真の母親の心である。
「イヤ、私がご案内致します。」
と言って老女は物足りなさそうに立った。実はもっとゆっくりと話をして探り聞きたいのだ。
梅の間への行き方はこの老女と同じくらい良く知っている。けれど先に立って走る訳にも行かないから、老女の歩きをもどかしく思いながらその後に着いて行き、ようやく梅の間に滑り込んだ。そして先ず良彦の寝ているところに目を注いだ。