nyoyasha11
如夜叉(にょやしゃ)
ボアゴベ著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
since 2012. 4.17
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如夜叉 涙香小子訳
第十一回
実に二人の貴夫人を相手にして音楽の話をするのは最も老人の不得手なれば老人が持て余して、「亀子亀子」と呼び立てるのも無理ではない。流石捨苗夫人は老人の迷惑がるのに心付き、
「イエ老人若い者は又若い者同士で色々話が有りましょう、お呼び立てなさるのは罪ですよ。夫(それ)に私も松ちゃんももうお暇にせねばなりません。これから又行く所もありますから」
と言って帰り去る支度をする。この時あたかも鶴子の兄なる春野耕次郎が銀行を仕舞っての帰り道と見え店先より此の所に入って来たので夫人は之を見て、
「夫(それ)にね老人、今春野耕次郎さんが来ましたから私が居なくてもお話相手には困りません」
と云う。老人は耕次郎の名を聞き嬉そうにア彼が来ましたか」
(捨苗)「ハイ茲へお出でになりました。私の宅へは屡々(しばしば)見えますから私と春野さんは極々の親しい仲ですが貴方は又何(ど)うしてアノ方をご存知です」
(老人)「アレは私の幼馴染の息子です。コレ耕次郎早く来て俺の手を握らぬか、畜生めと辺りを忘れて手を差し伸べる。耕次郎は唯一目にて伯爵茶谷立夫が此の部屋に居ると知り、更に今迄亀子と親しく打ち語り居たことを見て取ったので、これが世に言う嫉妬の念か、非常に面白くない思いをして自らここに入って来たことを後悔する様子に見える。だが彼強いて何気ない体を作り老人の延ばした手を握りは握ったが気は引き立たず、
「今日は少し行く所があって妹鶴子を迎いに来ました」
と云う。アア彼悪気なしとは云へ男は男、我が人知れず思い染めたその女が仇し茶谷の傍にあって非常に親し気なるを見てはどうして長居する心が生じよう。早々鶴子を連れて逃げ去ろうと思ったのだ。鶴子も兄の心の術(せつ)なきを察してか、
「一緒に早く帰りましょう」
と云わぬばかりの目付きにて兄を見る。
今迄室の隅に鶴子の居るのを見て雇い女か何かの様に思い、気にも留めなかった捨苗夫人は初めて鶴子の容貌の一方ならず美しいのに心付き、口の中にて、
「オヤあれが春野さんのお妹」
と呟き更に耕次郎に向かい、
「此の次の面会日に必ず鶴子を連れて来るようにとの心を通ぜんとするが、松子夫人は目配せで之を留め、イザ帰らんと云う如く立ち上がる。
老人はこれらの事総て知らないので、
「コレ耕の野郎来ると直ぐ帰ると云う奴があるか」
と云う言葉さえ乱暴なのは親身のように思うためだと分かる。
(春)「イエ今日は全く行く所がが有りますので」
と春野が言い訳する暇に松子夫人は捨苗夫人と共に立ち、
「では老人お暇に致しますが捨苗夫人の面会日には屹度お出で願います。私もその積りで歌ってお聞かせ申しますから」
捨苗夫人も言葉を添え、
「松ちゃんの歌を聞けば音楽と牛の鳴き声の違うことが分かり、必ず貴方も音楽好きになりますから」
(老人)「イヤ屹度(きっと)参りますが貴方方はもうどうしてもお帰りですか。アア耕次郎は鶴子を連れて行くと云うし皆が俺を見捨ててしまう」
と心細そうな声を発した。此の暇に亀子は春野耕次郎の傍に寄り、
「貴方は少し待って下さいよ。今私が父へ話す事がありますから貴方にその場に立ち会って戴かねばなりません」
と囁き告ぐ。耕次郎は之を聞き、彼愚かなる男ではないので直に其の心を察し、さては之より茶谷立夫と婚礼する思惑をその父に話そうとして、我に立会わせる者なるかと殆ど顔色の青くなるほど苦しく思ったが、如何とも詮方なし。
「何か内緒事の相談なら私の居ない方が好うございましょう」
と云うのさえも血を吐く思い。
(亀)「イヤ私の生涯が定まるのですから、是非何方に立ち会って戴かねばなりません」
アア亀子はこの罪もなき少年の心の苦しみを知らざるか、彼が顔の益々青くなるのを見ても彼が心に非常に深い愛情があって今この言葉に掻き乱され変じて生涯の失望となることは分かり相なものであるが、耕次郎は逃げるにも逃げられずこの苦しみを察する者は独りその妹の鶴子が居るだけだ。
このようにするうちに両夫人は早や出で去れり。店まで両夫人を送り出した茶谷立夫は此方(こちら)を向き亀子が耕次郎と話しているのを見て恋の敵と思う如く眼の隅を光らせた。唯何事も察することが出来ない老人は再び声を発し、
「亀子亀子」
と呼ぶ。
(亀)「ハイここに居ますよ」
(老)「アアこれで両夫人も行って仕舞ったから緩々(ゆるゆる)栗川巡査の話しを聞こう俺の前にお連れ申せ」
(亀)「栗川さんは先程帰りました」
(老)「何だと早や帰ったか、俺は色々聞くことがあったのに。夫(それ)では長々を是へ呼べ。彼は栗川の話を聞いたようだ」
(亀)「長々も帰ってしまいました」
老人は益々心細き声音にて、
「それ見たか。俺の言った通りだ。皆が俺を見捨てて仕舞うワ」と嘆息す。亀子は之を労(いた)わって、
「ナニその様なことが有りますものか未だ茶谷さんも春野さんも居りますよ」
と言い、更に是より我が一大事を言い出そうとするように言葉の調子まで全く変え、
「夫(それ)にね阿父さん皆の居なくなったのは幸いですよ」
(老)「何が幸いだ」
(亀)「イエこれからアノ茶谷さんと私の婚礼の事を相談したいと思いますから」
老人ハ聞いて忽ち眉を顰(ひそ)めたがやがて又笑いを浮かべ、
「ウ畜生到頭言い出しやがったな、そうだろうと思った。婚礼は日延べにしたと殊勝らしく言ったけれど、今に又言い出すだろうと俺は心待ちに待って居た。爾(そう)だろう爾(そう)だろう。約束が決まってから婚礼をせずに居るのは中々辛いよ。
俺なぞは手前の阿母(おっか)さんと約束の決まった二日目で直ぐ夫婦になった。尤も俺も阿母(おっかあ)も着ている着物の外に財産と言っては何も無く、立会人も何も入らず二人で手を引いて区役所へ行き戸籍を書き換えて貰っただけであったが、手前達はそうも行かない。
公証人も立ち会って伯爵家の財産とお前の財産を残らず書き留め他日夫婦や子供の間に財産争いの無い様にして置かなければナ。後で面倒な苦情が起こっても困るので。先ず夫(それ)や是やで一週間は掛るだろう。幸い茲に春野耕次郎もその妹も居るから二人を立会人にして残らずここで言ってみろ。ササその日取りを何時に決めたエ亀子。
今伯爵と部屋の隅で何か話して居たから二人で残らず決めただろう。構わないから言ってみろ言って見ろ、フム分かった。成る丈早くと言うのだな。ではこうしよう。伯爵家の公証人と俺の公証人と万事決めるのに一週間は掛ると見て今から三週間の中としよう。夫(それ)で好いじゃないか。待ち遠しくても二人とも其れ位の辛抱をしなくてはいけないよ。」
と娘を愛する一身にて早や先に立ち何もかも決めてしまったので亀子は殆ど拍子抜けて、
「イヤ阿父さん日取りはそれで好うございますが、貴方は私共夫婦と共にスミルナまで行らっしゃるのはお嫌ですか」
(老)「何だスミルナとは何処だ」
伯爵茶谷は初めて口を開き、是より先刻亀子に話したように唯一人の伯父のことからスミルナの気候など事詳しく話し聞かすと老人は聞き終わって、
「それは何より面白い。俺も実は是から捨苗夫人の家へ度々行き音楽を聴きながら居眠りをしては困ると今から其れが心配だから何処へか逃げて行こうと思って居た。ナニ一度や二度行っても居眠りはしないけれど其のうちにおろおろはじめるテ。婚礼の済み次第スミルナへ行き二月三月逗留して帰るとしよう。併し蜜月の旅に盲目を連れるのは随分邪魔だから今から断って置く、道で俺を邪魔にしてはいけないぜ。」
(亀)「ナンのもったいない。貴方を邪魔などに」
(老)「好し好し、俺は目が見えないから道々二人で色々なものを説き聞かせて呉れなければいけないぞ。鼻で臭いを嗅いでも景色は分からないからナア」
と何時もより機嫌の好い様子に茶谷立夫も益々安心の様子で、
「決して貴方に御不自由は掛けません。夫に私の伯父というのもかねがね貴方の御高名を慕っています」
(老)「ナニネ私は夫ほど高名な野郎でも有りませんが何しろ行きましょう。ササ斯(こ)う事が決まれば安心だ。是から一同で今夜は祝いの酒でも飲もう。耕の野郎も来い鶴子も来い。サ茲(ここ)へ茲へ」
老人は耕次郎をあたかも我が子の如く思い娘亀子の慶びは耕次郎も定めし喜ぶならんと思へど若し老人眼があって一目耕次郎の顔を見ればそのただならぬ色合いも何もかも悟ることだろう。耕次郎は余りの事に喉まで涸れ、かすれかすれの声を絞って、
「イエ私は今夜是非」
と何やらん言い訳すれど充分には聞き取れず、亀子も茲に至って初めて耕次郎の苦しみを察したか一種の哀れみを催したように、
「イエ阿父さん耕次郎さんは今夜鶴さんと共に行く所が有ると言いますから又今度お祝いすることになさいな」
と云い耕次郎を救い置いて更に鶴子の傍に行き、
「私の婚礼の時には貴方が付添いになって下さいな」
と囁きその頬にキスを移せば頬はさながら焼けるが如し。アア不幸なる兄妹鶴子は兄を引き立て引き立て此の家を辞し去った。
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