nyoyasha20
如夜叉(にょやしゃ)
ボアゴベ著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
since 2012. 4.26
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如夜叉 涙香小子訳
第二十回
長々生は乞食婦人と共に食堂に入って行くと、今まで踊っていた数十組の男女が皆来て休息しているためその混雑は大変なものだった。中でも目立つのは初め乞食婦人と共に次の間から入って来た彼の憲兵、魚売り女等の連中で、彼等は中央の最も広いテーブルを囲み牛の如く飲み馬の如く食っていた。その中には彼の天狗ッ鼻の竹もいた。
乞食婦人は長々の手に留まってこのテーブルを擦り抜けて通ったが、彼等一同は唯飲食に夢中で全く乞食婦人を知らないかの様だった。振り向いて見る者もいない。長々生はこれで今までの疑いを解き、さては乞食婦人の言った事に違はず彼等は夫人の手下ではなく、婦人は『まあ坊』でも軽根松子でもないと見えた。そうと知って居たらこの食堂には来なかったものを、訳もなくこの婦人の馳走になるのは好ましくないと早や後悔を始めたが既に遅かった。
婦人は一個のテーブルを指し、「是だよ。サアお掛け」と言い自ら先に腰を下し。見れば成る程テーブルの上には二人前の飲食物が置いてあるだけだ。長々は少しの間躊躇(ためら)ったが、「なる様になれ」と呟(つぶや)いて椅子に就(つ)き思い切って一杯を飲み干すと乞食婦人も満足の様子で、
「そうだ。遠慮しても始まらないから沢山お飲み。お前は知らない女の馳走になるのは好まないと思うのだね。見掛けによらず内気なところがお前の取り得だよ。好し好し私の身の上を言って聞かせればその遠慮もなくなるだろう。私はねスペインのカジス座に勤めている女役者だよ。」
長々もそうだったかと思い、
「カヂス座の役者なら良く踊るはずだ。この国からもわざわざ見に行く人さえある程だもの。」
(乞食)「カヂス座の座頭でペピタというのは私の事だ」
長々は驚きながらも道理で言葉にスペインの訛りがあると思った。女は少し不満足そうで、
「おや、訛りがあるの」
(長)「大有りさ、外国人にしては感心に良く使うが生え抜きの巴里っ子の言葉じゃない。」
(乞食)「でも私は生え抜きだ。巴里に生まれて五歳の時あっちへ行き、その後も二年目、三年目にはきっとこっちに来るが巴里で生まれた者は如何しても外国で長く辛抱はできないよ。アア本当に辛抱は出来ないよ。今度などはどうかして巴里の公園で踊ってみたいと思い誰にも言わずに抜けて来たのさ。」
(長)「抜けて来たと。それではこう言ううちにも追っ手が掛るかも知れないな。」
(乞食)「何今丁度稽古中だから二日三日居なくとも追っ手は来ない。その代わり明日は一番汽車で帰るからネ。」
(長)「おやおやそれはお名残だ。」
(乞食)「その代わり来年の今頃までには年期が明けてこっちへ帰るから其の時は又一緒に踊ろう。」
(長)「踊ろうとも。だが俺はお前がまあ坊だろうと言う様な気がして仕様がない。」
(乞食)「又始まった。お好しなね。お前よっぽど未練が深いよ。」
(長)「何故」
(乞食)「何故だって。口を開けば『まあ坊』『まあ坊』と言っているもの。」
(長)「そうじゃないがお前があんまり好く踊るからよ。」
(乞食)「では何かへまあ坊と言うのも矢張り俳優かエ」
(長)「ナニ俳優じゃないからお前とは丸で身分は違うけれど、先ほどお前と一緒に出た天狗っ鼻の男があるだろう。」
(乞食)「アア今もあのテーブルに居る兵隊の服を着けた男かえ。」
(長)「そうそうあれが何時も『まあ坊』と一緒に踊った男だからもしやお前が」
(乞食)「イヤな事だ。私は死んでもアノ様な男とは踊らないよ。口を利くのも真っ平だ。」
(長)「アレだって俺だって同じ男じゃないか。」
(乞食)「大違い、アレハ唯兵隊の服を着けるなど余り知恵が無さ過ぎるじゃないか。お前はうまく赤印度人に顔を作ってさ。私の見たところじゃ如何しても俳優だよ。そうでなければこううまく顔は作れない。それとも画工か、さもなきゃ、そうさ彫刻師だね。星を指す鋭き眼に長々はビクリとしながら、当たった、俺は俳優だ。」
(乞食)「では満更の他人でもないワ、同業だから。したがお前は何処の座に出る。」
(長)「お恥ずかしいが名を言っても分からない様な緞帳だ。」(乞食)「緞帳だって恥ずかしがることは無い。私だって矢張り初めは名も無い芝居へ出勤したわね。だがお前何をお勤めだ」
長々は唯当惑し容易には返事も浮かばない。乞食婦人はそうと見て、
「アア、返事をしない所を見ると未だ好い役は付かないね。好し好しそれじゃ聞かないがお前の名前だけは聞かせてお呉れ。今度会う時まで覚えて居るから。」
(長)「名前は唯長と言うんだ。」
(乞食)「好し、長さんか。今度会う時には私の本名も聞かせ、お前の本名も聞くとしよう。踊りの仲間で長さんと言えばお前も分かるだろう。俳優仲間でペピタと言えば私も大概分かるから。」
(長)「だが俺の名はお前のほど分からないよ。」
(乞食)「分からなくても好いわね。では長さん其の積りでもう一杯お遣(や)りよ」
と乞食婦人の差し出す杯を長々は取り上げるとこの時乞食婦人は長々の指輪に目を留め、
「オヤ大層古風な指輪じゃないか、好いことネエ、一寸お見せ」と言う。
長々は我が思う壷と嵌めているその手を差し出しながらも以前の疑いに立ち戻り、さてこう今まで巧みにその本性を隠していたが、これからそろそろ化けの皮を現そうとしているな。総て婦人が指輪の類に目を留めるのは当たり前の事とは言え、他人に取ってはそれ程の値打ちのないこの指輪をかれこれ言うのは理由が無くてはならない事と婦人の様子に充分気を留ぬていると婦人は非常に驚いたように、
「オヤオヤ長さん、お前は貴族だね。」
(長)「なに俺が貴族なものか。」
(乞食)「ではこの指輪をどうして持っている。」
(長)「阿母(おふくろ)の家に伝わっていた品と言うことで死ぬ時俺に呉れたが。」
(乞食)「ではお前の阿母(おふくろ)が貴族だね。貴族の阿母(おふくろ)に出来た子ならばお前も貴族の片割れだ。お前が貴族、これは驚いた、アハハハハ」
と打ち笑ふ。
(長)「片割れか何だか知らないが古風な指輪は指してはならないという規則も無いから指しているんだ。」
(乞食)「なんだか細かに字を彫ってある。これがその家の金言とか言うのだよ。長さんこの金言はなんと言う。」
(長)「何というか顕微鏡でなければ読めぬから読んだことはないが。」
(乞食)オヤオヤお前は自分の家の金言を知らないのかえ。阿母(おふくろ)に問うた事ぐらいあるだろう。」
(長)「イヤ無い」
(乞食)「まあ呆れた。馬鹿だよ。私など若し我が家に金言でもあれば暗(そら)で覚え着物へまで縫い付けて置くけれど。お前、嘘だろう。知っているだろう。お聞かせな。」
長々は自分の返事が甚だ不出来なことを知っているので成るべく無言を守ろうとする。婦人は再び長々の手を取り上げ、
「どうも唯の指輪ではないと思った。この様なのは買おうと言っても無いからね、お前何とか相談しようじゃないか。」
長々は「来たぞ」と呟き、
「相談とは何を。」
(乞食)「イエネ、私はこの指輪に惚れたから、お前安く売っておくれ。」
安く売れとは意外なり。この女若し我が疑う通りならば代価は厭(いと)わず幾らででも買うべきはずだがと少し疑いを起こしながら、
「売ってくれと言われても売るものか。古物商いではあるまいし。」
(乞食)「では私にお呉れな。」
と事も無げに言いやる。長々は何と答えるだろう。
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