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如夜叉(にょやしゃ)

ボアゴベ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2012. 4.30

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如夜叉    涙香小子訳

                 第二十四回 

 お皺婆が『まあ坊』を知り猶其の情夫の姿さえ見た事があるとは実に意外幸いなので長々は今夜充分に問い試みようと思ったのに婆は長々の気も知らず早や眠りに就いてしまったので、これを揺り起こすのも気の毒とその儘(まま)にして置いた。是から夜中になるまで幾度と無く天狗ッ鼻が表の窓から内を覗いたが長々が立ち去る様子が無いため、彼も思い切って立ち去ったのだろう。

 長々は明け方になって椅子の上で少し眠り始めて、目を覚ました頃は早や朝の七時で表には人通りもあり鼻竹の率いる『まあ坊』の手下も今は影さえ留めないので、お皺婆と共にここを出て一夜の宿を借りた礼にと婆をマルチール街にあるその宅まで送り届け、それより宿に帰って又二時間ほど眠ったが既に午前の十時に近づいたので軽根松子夫人を訪ねて行く刻限だ。

 そこで彼の指輪を紙に包みアンジョー街にあるその家に行って見ると取次ぎの女中が出て来て夫人は見ず知らずの人には一切面会しない。如何しても会いたければ誰かに紹介を頼み来るようにと言う。長々は師匠三峯老人の使いだと言おうかと思ったが、我が思いの儘(まま)に師の名を用いるのは好ましくない。それよりも指輪の事を言えば一層の効き目があるだろうと思い、

 「私は当家御主人の落としなされた指輪を拾いましたから、警察に届けるよりも直々お返し申すが好かろうと思いわざわざ上がりましたから、是非面会を願いたい者ですが。」と言うと女中は、
 「では聞いて見ましょう。」
と言って退き、暫くして出て来て、
 「主婦(あるじ)軽根夫人は指輪など捨てた覚えがありませんから多分門違いだろうと申します。」
と告げた。

 長々はびっくりし、
 「間違い、その様な事は無い。こちらの主人はこの頃露国から帰った有名な歌い女でしょう。」
 (下女)「爾(そう)ですが指輪を落とした事はない言います。」
と言い、五月蝿(うるさ)い奴と思うような面持ちでその儘(まま)障子を閉めて退いたので、長々は取り付くべき島もなかった。 殆(ほとん)ど狐に化かされた思いでここを立ち出(い)で更につくづく考えて見ると、昨夜我を殺してでも奪い取ろうとした程なのに覚えが無いとは何事だろう。それとも初めから我が思い違いで昨夜踊った『まあ坊』と軽根松子は全くの別人なのだろうか。

 何しろ二人ともその顔が非常に似ている事は明らかなので、初め質屋の店先でこの指輪を落とした女も我と鶴子は松子夫人と認めたが実は松子夫人ではなくて、即ちそれが『まあ坊』だったか。爾(そう)すればこの指輪は『まあ坊』の品で松子夫人の品ではない。

 松子夫人と『まあ坊』とを同じ者とばかり思い詰めていたのは全く我が間違いであったと疑えば疑うほど益々迷い、果ては我が宿に歩いて帰る気力さえ無いほどに落胆したが、又思い返して、
 「イヤイヤ何(どう)しても別人ではない。軽根夫人は『まあ坊』だけれども既に俺を疑っており、大事を取って覚えが無いなどと言ったのだ。指輪は欲しいけれど若し俺がその筋の探偵でもあれば恐ろしいから爾(そう)だそれで指輪の事を思い切ったと見える。」
と自ら呟(つぶや)いて我が心を慰めてはみたが、又暫(しばら)くして、

 「イヤ待てよ。いよいよ爾(そう)とすれば俺が自分で指輪を持って行ったのはこの上も無い失策だ。女中が応接する間に襖の後ろから覗いて居て俺の顔を見覚えたかも知れない。爾(そう)すると後々の為に非常な不利益だ。」
と一人我が身を恨みながら宿に帰り、暫(しばら)くして再び出て、今夜は日々の勤めの為師匠西山三峯老人の家に行ったが、今日は何故か鶴子も来ない。

 察するに彼は亀子が我が兄耕次郎を失望させて茶谷の妻になろうとするのを恨み、更に兄への遠慮の為わざと手控えたものに違いない。何しろ鶴子が来なければこの家ほど淋しい所はないと口の中で呟き呟き仕方なく巨像の頭に上り道具を取って仕事を初めたが、午後一時過ぎる頃になり、昨夜質屋で救ってやり、その後又馬尾蔵の店で逢った彼の貧しい女お紋が約束の通り訪ねて来たので、長々は之を細工場の片隅に待たせて置き、奥の間に入って行き見ると、ここには茶谷立夫も来て居て亀子と共に目の見えぬ老人に向かい頻りにスミルナ行きの楽しみを語りつつあった。

 長々はいっその事短兵急に彼の指輪を茶谷に示して見ようかと思ったが矢張り初めに思った通り鶴子に言い含めて亀子から茶谷家の金言を問わせるのが穏やかだと忽ち思い返し、何気なく亀子に向かって貧女の事を話すと、亀子は以前から慈善の道には熱心なので直ちに自分の居間に行き、幾オンスかの毛糸を持って来て様々の編み物を注文した。

 貧女は有難涙を流して亀子と長々に厚く礼を述べ、
 「明日中には編み上げてお届け申します。」
と言い、別れを告げて去ったので、長々はその後を追って行って様々なことを問うと貧女は長々に恩を感ずるまま包み隠さず充分に答えたけれど、別に取り立てて重要なことはなかった。

 唯その所夫(おっと)とする天狗ッ鼻は名を竹二郎と称し鼻竹と綽名されている事。今から十年前に夫婦となったが仲良く暮したのは二、三年で、鼻竹は酒に身を潰し家を出た儘(まま)帰って来ず、一月或いは半年を経て偶々(たまたま)帰って来ても子供へは見向きもせず、売り残る妻の着物を引っさらって又出て行くだけでこの上なく横暴なこと等、総て長々が察した通りなので、更に語を進めて『まあ坊』と言う者を知らないかと問うて見たが全く知らないとの返事でその言葉に偽りありとは思われないので、これ以上問うのを止めた。

 これから別に変わることもなく数日を経たがその間に鶴子は二度ばかり亀子の家を訪ねて来たが、何時も匆匆(そうそう)にして立ち帰る為め長々は兼ねての目的通りこれに茶谷家の金言を問わせることも出来ず、その兄耕次郎は体の調子が悪いと言って更に来ない。

 前から約束した日曜日の美術館行きすらもソレが為もう一つ次の日曜まで延期すると断って来たので長々は失望に失望を重ねるばかりだった。ただ根気良く老人の許を訪ねて来るのは彼の茶谷立夫で今は殆ど家族の一員かと怪しまれるばかりなので長々は益々心配の度を高め、今のうちに早く彼が正しくない男である証拠を示しこの婚礼を妨げなければ悔やんでも後の祭りに成ってしまう空しく気を揉むばかりだが浮世のことは思う通りは行かないものだ。

 このようにして居るうちに終に彼の軽根松子夫人が捨苗夫人の家で歌うという約束の日になり、三峯老人も亀子及び茶谷立夫に連れられてその席に出席するとのことなので長々は今晩行って松子夫人に会い、じっくりとその顔に横傷のあるなしを観察し、更に先の夜我と共に踊った乞食婦人と別人であるか否かを見極めなければ見極めるべき時無しと思い、老人に頼んで月給の前借をして新しい手袋など調えて宵のころから老人の後に従がい捨苗夫人の家に入って行ったが、松子と長々の対面は如何なる結果をもたらす事だろう。

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