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如夜叉(にょやしゃ)

ボアゴベ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2012. 5.17

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如夜叉              涙香小史 訳

                  第四十一回

 実に此の松子夫人は横傷の『まあ坊』だった。他人を欺くことが出来るとしてもお皺婆を欺く事は出来ず、婆は少しも疑わず打ちくつろいで話をし、初め松子はまだ充分に安心せず婆が言葉の切れない内に一層のこと断然として我は『まあ坊』ではないと言い切ろうかと考えている様子だったが、既に顔を合わせた初めに於いて思わず知らず、おや婆さんかと声を掛けた失敗もあり、今更否定しても仕方がなく、特に悪意も無い相手なので昔の様に打ち解けて置けば又役に立つ事もあるだろうと少しの間に決心し、

「婆さん、本当に好く訪ねて来ました。だがお前、如何して私が軽根松子と名乗り此の所に住んでいる事を探り出したのだえ。」
婆は気が利くことには、
 「何(どう)しても斯(こ)うしてもない、一昨日昼過ぎお前が馬車を走らせているところを往来で見掛けたから」
と口から出任せに言い掛ければ、『まあ坊』は覚えありと見え、

 「アア分かった、ハスマン街でその時私は貴夫人と合乗りしていただろう。」
 婆は益々力を得、
 「そうさ、私は一目見てお前が外国から帰ったと知り、直ぐに声を掛けようかと思ったが相乗りの方があるからそれも良くないだろうと思い、見え隠れに其の後を尾(つ)けて来た所、お前がこの家に入ったから近所でそれとなく聞き合わせたら、何でも軽根松子夫人と言うことだと分かったから、改めて訪ねて来ようと思い、一昨日は先ず其の儘(まま)引き取ったがね。」

 (松)だがお前は私のことを『まあ坊』と言って訪ねたわけではないだろうね。
 (婆)その様な間抜けなことを言うものかね。安心おしよ。ただね口から出任せにこの角屋敷は若し山田男爵という人の家ではありませんかとこう問うたのさ。すると「いいえあれは軽根松子夫人という方が此の頃住まいました」と答えたからしめたと思って何気なく帰えったのさ。

 (松)感心にお前は気が利(き)くよ。
 (皺)そのようなことにかけちゃ慣れたものさ。それから昨日実は訪ねて来ようかと思ったけれど、少し用事もありツイ今日に成った。折角この通り訪ねて来たから今まで通り少し儲けさせてお呉れな。だがお前一体何処に行っていたのだい。この通りの身分になるには随分苦労をしただろう。話してお聞かせ。

 (松)「アア随分苦労をしたよ。夜逃げ同様にコッチを立ち、少しばかり公園などで歌ったことがあるのを幸い歌姫の群れに交じり露国の都へ行ったがね、初めの一年は随分辛かったけれど、二年目に或る貴族に見初められ落籍(ひか)せて貰ってサトラヴと言う所の別荘へ囲われたが給金が一年十万フランで外に様々な手当てがあるから随分面白かったけれど、三年五年と経つに従がい故郷が恋しくて毎晩のように公園の踊りや何かを夢に見るのさ。それでもまあパリで『まあ坊』という名前の忘れられるまでと思い辛抱に辛抱して今年迄居たけれど、もう好い時分だと思って帰って来た」
と打ち明けて物語る。

 (婆)本当にお前は偉いものだよ。もう是で貴夫人になり済まし安楽に暮されるだろう。
 (松)そうさ生涯贅沢に暮されるから是からは気に入った亭主でも持とうかと思っているが。
 (婆)でも今しがた出て行ったアノ生白い紳士はお止しよ。アレを亭主にすればお前又苦労するよ。
 (松)アレハ何、大丈夫さ。八年も昔に互いに好いたとか何とか言ったこともあるけれど今ではもう何でもない。
 (婆)でもあるまいよ。帰り早々ああして訪ねて来る所を見れば。

 (松)何、人道で逢って互いに未だ顔だけ覚えていたから訪ねて来ただけの事さ。
 (婆)まあしかしお前に何も説諭に来た訳ではないからその様な事はどうでも好い。お前何か私に儲けさせてお呉れな。
 (松)そう、折角訪ねて呉れたのだから如何にかしたいと思うけれど、もう古着など着ない身の上になったのだから。
 (婆)それはそうでも着古した着物はあるだろう。それを私に払い下げて呉れれば古着を買って呉れるより儲かるわね。着古して女中にやる様な者は沢山あるだろう。

 (松)それはあるがお前に払っては女中が機嫌を悪くするから。
 (婆)「何、女中には私から又充分に渡りを付けるからあるのなら払ってお呉れ。」
と言いながら辺りを見回し隅の方の長椅子に投げ掛けてある一枚の着物に目を留め、
 「アアあれを払ってお呉れ。もう酷く皺になって貴夫人には着られないよ。」

 松子も同じくその方を眺めやり、
 「そうね、あれなら払っても好いが。」
と言う。婆は早や手に取って来てその地合いを調べながら、
 「仕立てが露西亜風だから引き取っても売れ口は遠いけれど。」
 (松)相変わらず商売にはみみっちいね。それでも拵(こしら)えるには五百フランから掛ったのだよ。

 (婆)田舎ではそれ位は取れるだろう。パリで仕立てれば3百フランで出来る。
 (松)幾らパリだって第一地合いが違うから好く御覧な。
 (婆)成る程地合いは可なり好い様だ。百フランに払ってお呉れ。女中にも五十フランやそこいらの渡りを付けなきゃならないから随分高いものにに付くけれど。

 (松)高いか知らないが私はその位のお銭(あし)は要らないよ。
 (婆)それはそうだろうけれど、どうせ只で女中にやる品だから私に百フランで払って呉れれば女中も上前を取って喜ぶし私も品は兎も角も貴夫人を一人得意にしたかと思えば後々のために嬉しいからね。そうしてお呉れ。お前だって又そうじゃないか。百フランは半日の小遣いにも足りないだろうが只遣る着物を百フランで売れば百フランだけ拾ったも同じことだ。

 『松あ坊』は婆の言い回しの巧みなのに思わず笑みを催したが忽ち又何事をか思い出した様に、
 「おお、拾ったと言えば私は大変な品物を落としたがお前何(どう)にかしてそれを取り返す工夫をしてくれないか。」
と思いも寄らない言葉を聞き婆は『まあ坊』の顔を見上げ、
 
 「落としたとは何(ど)の様な品だえ。」
 (松)何品は詰まらない指輪だが私が露西亜へ行く前に思い思われた紳士があったの。其の紳士が又会うまでの記しにと自分の家の紋や金言を彫りつけた指輪を呉れたが。
 (婆)オヤ紋や金言と言えば貴族かえ。

 (松)そうさ。伯爵だよ。伯爵の被り物まで彫り付けてあるのだよ。ところが私が露国へ行って間もなくその紳士が死んだかからその指輪はなお更貴(とうと)く銭金には換えられないように思うけれど生憎と私はそれをこの国で質に置いて行ったのだが、どうか流れないようにと思い、年々利子を送っていたが今度帰ってから第一にそれを請け出しに行ったところ外の品と一包にして帰ったから途中でその指輪だけ落としてしまい、家に帰ってから気が付いたけれどもう仕方が無い。

 (婆)オヤオヤそれでは新聞にでも広告して、拾った者には沢山の礼をするとか何とか言えば。
 「そうさ。私もそうしたいけれど自分の名前では広告することも出来ずというもの。だが不思議なこともあるもので直ぐにその翌日若い男が指輪を拾ったと言ってわざわざここへ届けて来てね。」
 (婆)では受け取れば好かったのに。

 (松)「所が気味が悪くて受け取られないわね、その男がまあ如何して私の落としたと言う事を知ったのか。もしやその筋の探偵でもありはしないかと思ったから、私は大事を取りその様な品を落とした覚えはないと言い切ってやったのさ。」
 お皺も眉を顰めた。
 「どの様な男だったえ。」
 (松)それがね、自分で逢わずに女中に取次ぎをさせたものだから。

 (皺)でもお前鍵の穴から覗く位の事はしたろう。
 (松)「それをすっかり忘れたのさ。後で気が付いて直ぐに窓から覗いたけれど後姿だけしか見えなかったから、今でも残念なことをしたと思っているが、しかしその風付きでもしやその人ではないかと内々当たりは付けているが。」

 これから『松あ坊』はなお如何なる事を言い出そうとするのだろう。

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