nyoyasha45
如夜叉(にょやしゃ)
ボアゴベ著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
since 2012. 5.21
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如夜叉 涙香小史 訳
第四十五回
長々は再び柳田夫人を引止めて、
「夫人、夫人、ここが大事な所です。今貴方がお退きなさっては私一人の力でどうして師匠に納得させることが出来ましょう。松子夫人というのは実に意外な毒婦ですから、今その本性を暴かなければ亀子さんの身にまで拘わります。」
と我を忘れた熱心さに夫人も心を動かしたようで無言のままで座に戻った。老人は益々怒り、
「なんだと、亀子の身の上にまで拘わると。馬鹿め松子夫人が何であろうと亀子の知った事じゃない。」
(長)「亀子さんが知らなくてもその身の上に掛るのは同じ事です。」
(老)「言うな、言うな、手前の言う事は皆讒訴(ざんそ)だ。証拠も無いことをこの老人が信じると思うのか。サアその鼻竹とやらに遣った手紙を松子夫人が書いたと言う証拠が何処に在る。」
(長)「証拠はここに有りますけれど、貴方が御自分の目で読み比べる事が出来ないから困ります。柳田夫人にお聞きなさい。」
とこちらも今はほとんど師弟の隔てを忘れ、荒々しい言葉を使う。 夫人は長々に賛成して、
「ハイ、書いたものだけの所ではどうしても同じ人としか思われません。」
(老)「馬鹿を言うな。書いたものが何のあてになる。旨(うま)く他人の文字を書く人は世間に幾らでもいるわ。」
(長)それにしてもこれだけは偽筆では有りません。貴方に松子夫人が寄越したのは勿論自筆でしょうし、鼻竹が私に渡したのは鼻竹自身が偽など作る筈がありませんから偽とは決して言えません。」
(老)「では鼻竹を呼んで来い。」
(長)「それは貴方の無理とい言うものです。鼻竹は今言う通り屋根から落ちて死にました。それでも松子夫人が『松あ坊』と言う名前を以って下等極まる振る舞いをしている事は私の外にも知った者が沢山あります。特に私も松子夫人が初めてこの家に来たその夜に門苫取(モントマトル)の公園で『松あ坊』が大勢のゴロツキを手下にして踊った事は確かに知っています。『松あ坊』と言ういやらしい女が露国へ行って財産を作ったため今は立派な貴婦人に化けているのです。第一松子というのも『松あ坊』と言うのも同じ名前ではありませんか。」
と必死になって説き立てるが老人は今まで世にも珍しい夫人だと敬っていた軽根松子が我が目を潰した敵だとは容易に思えないだけでなく目が見えないだけ疑いの心も深いので確かな証拠を得るまでは承知しないのも無理は無い。
「貴様が言うのは俺にでも作れることだ。作り事で無いならばサア証拠、証拠、証拠がなければ二度と再びこの家に寄せ付けないぞ。」
(長)「証拠は色々有りますよ。第一栗川巡査もこの家で初めて松子夫人を見た時に顔が『松あ坊』にそのままだと言いました。」
(老)その様な事を誰に言った。。
(長)「私に」
(老)「では栗川を呼んで来い」
(長)「栗川は鼻竹を捕える時一緒に滑り落ちて死にました。」
(老)何だ、アノ栗川が死んだとナ。貴様の証人が皆死ぬるとは不思議じゃないか。死んだ人の名を数えてあげるような無駄な事は止めてしまえ。何でも好いから俺に分かる証拠を出せ。」
俺に分かる証拠と言っても目の見えない人に分らせるのは非常に難しいことなので長々は殆ど持て余して見えたが、忽(たちま)ち思い付くことがあって、
「よろしい、長い、短いを争う事はありません。『松あ坊』は横傷の『松あ坊』と綽名されるくらいの女で左の頬に横傷が在りますよ。」
(老)「では益々松子夫人と別人だと言う証拠じゃないか。夫人の頬にそのような傷があるとは誰も噂をした者がいない。」
(長)「ところが夫人の頬にもそれがありますよ。夫人は化粧術を心得ておりますから巧みに白粉などを付けてその傷を隠していますけれど、有る事は確かです。幸いあなたは夫人の像を作るためその顔を探りますからその時良く気をお付けなさい。目には見えないが指先には必ず触りましょうから」
初めて老人の意に落ちる様に言う事が出来たので老人も少し満足の様子で、
「好し、これは面白い、今に来るからその時には念を入れて探って見よう。だが待てよ、イヤイヤ嘘だ嘘だ、夫人にその様な傷があるなら俺にその顔を探らせるような約束をする筈がない。これだけでもう探らなくても傷のない事は分っている。」
(長)「そうでは有りません。貴方が達て夫人の肖像を作りたいと言うものだから夫人は貴方を喜ばせる為に止むを得ず承知したのです。それに又貴方が横傷の『松あ坊』を知って居ようとは思わないからよしんば貴方にその傷が知れたところで何の差し使いも有りません。論より証拠です。来るのを待ってお探りなさい。」
(老)「探るとも、その代わり覚えていろ、愈愈俺の思う通り夫人の頬に傷がなかったら貴様こそ汚らわしい嘘つきだから以後弟子でもなく師匠でもなく俺の家には寄せ付けないぞ。」
(長)「それは元より承知です。」
と長々は固く請合ったが随分危ない仕事だと言うべきだ。松子夫人の左の頬に横傷の有る事には相違なくてもそれは七、八年前のことだ。どんな傷でも年を経て治らないものはない。特に松子夫人の傷と云うのは今度帰ってから誰の目にも見えず。捨苗夫人の客間でも長々が穴の開くほど眺めた時も全く傷はないと思い詰めそれに又松子を好く知って居るお皺婆までも全く傷が隠れたことに驚いた程なので、今日なおも老人の指先に触るほど窪んでいるかは甚だはっきりしない。もしも治療や年月の効果で肉が上がり指が掛らないほどに治っていたなら長々は老人を説き伏せるには又一層の困難が予想される。傍にいる柳田夫人もそれを気使うものと見えてしきりにその眉を顰めた。結果はどうなる事か分からない。
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