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nyoyasha49

如夜叉(にょやしゃ)

ボアゴベ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2012. 5.25

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如夜叉              涙香小史 訳

                第四十九回

 二階から降りて来た絹服の音は足音と共に静かに近づき終に階段の下に閉ざしてある狭い戸を開いた。己れ曲者、待ち構えていた老人は先ず『松あ坊』を充分自分の前まで出て来させるため二足ばかり引き下がり、次に左の手を差し延ばせばこれは嬉しい、『松あ坊』は我が前に在り、延ばした手は彼女の絹服の肩に触った。声を立てさせてはならないと思い有無をも言ず、その細い喉首を掴み絞めた。

 彼女が七転ハ倒の苦しみを叫んでも仕方が無い。助けを求めても仕方が無い。老人は怨みの刃を振り上げて力任せに彼女の胸の辺りを刺し通すと、もとより狙いが外れるはずもなく唯一突きにし果たした。
 「アアしめた。」
と老人は声を発し喉を握った手を放すと『松あ坊』の死骸は宛(あたか)も立ち木が倒れるように老人の足元に横たわった。

 老人は今迄はただ復讐の一念に我が身も忘れ世間も忘れ総ての事を忘れていたが、死骸の倒れる音と共にその忘れていた事をたちまち思い出した。人殺しと言う言葉は聞くのさえ恐ろしいのに、自ら人を殺したとあっては誰が恐れない者はあるだろう。増してや三峯老人は心水のように清くして普段は更に悪念もなく、ただ一時悔しいと思う一心から気も転倒し、殆ど発狂したと同じく何もかも打ち忘れて殺してしまったが、一念我に返ると共に我が身の恐ろしさに耐えられなくなり、熱い溜息を吐きながら血に汚れた九寸五分まで投げ捨てた。

 アア我は人を一人殺したと思えば我が身を置くべき所もない。若し目の見える人ならばその無惨な死骸を見、たちまち血迷って逃げ出すところだが、老人は逃げ出すことも出来ず、目に見えない血の色を心に描いて動くことも出来ず叫びもならず、ただ立ちすくんで身を震わせているのは、恐ろしさの為に釘付けにせられたかと怪しまれ、心に燃えた恨みの一念消えると共に後悔の念は愈々強く我が身を責める。

 「アア俺の身は人殺しの罪に汚れたか。虫一つ殺さない男がここに待ち伏せして首を握って此の手であの九寸五分でアア如何しても人殺しだ。先はこれでどの様な言い開きがあったのかも知れないのに、その言い開きの出来ない様に喉を絞め、騙し打ちに殺したとはと唯一人口走ったが、思えば思うほど益々我が罪の深いことを知る。『松あ坊』を我が当の敵とは今迄固く思い詰めていたが、その証拠と言っては唯長々の言葉だけである。

 もし長々が我を欺いていたならば何としよう。よしや長々は欺かなくても長々が確かに証拠と見留めたその証拠が間違っていたならば何としよう。裁判官さえ誤りのアルものを目の見えないこの老人が一言も相手の言葉を聞かず唯頬の傷だけを探りとして直ぐに彼の美しき松子夫人を我が敵と思うとは何事だ。松子夫人に若し罪がなかったら、我が身は天地の許さない大罪人である。

 よし又松子に罪が有るとしても私に殺すは人殺しなり。三峯老人は人殺し、亀子の父は人殺しと世間の人に言われれば亀子の辱めはどれほどだろう。今となっては自殺してこの世界逃れるよりほかはない。自殺は易き限りなれど亀子の身をどうしたら良いだろう。人殺しの娘と言う恐ろしい悪名は生涯彼女の身にまとわり付く。思えば我を怒らせて松子を殺させたその人こそ恨めしい。限りないけれど老人は泣きながら悔やんだ。

 今は立つ足さえ定まらず。それを支える為よろめきながら寄って行って横手の壁に身を持たせると、静かな細工場に僅かに声あるのは何の音ぞ。切り口から迸(ほとばし)る血潮の音と聞こえれば俄(にわ)かに又身の辺りが血生臭い心地がしてきて、逃げ去って若しかの死骸に躓(つまず)いたらどうしようと老人は口続けに、
 「どうすれば、どうすれば」
と叫んだが良い考えも浮かばない。

 今にも長々がお皺婆とやらを引き連れて帰って来たらその時こそは運の尽きである。長々は我に免じこの事を隠そうとするとしてもお皺婆は隠すはずはない。驚いて警察に訴えるだろう。我は亀子の目の前で縄に掛って引き立てられるだろう。一時の発狂の仕業と言っても誰が又信じるだろう。長々の帰るまでにこの死骸を片付けようにも、ああ目が見えない我一人でどの様にして片付けることが出来るだろう。

 声を出して人を呼ぼうか。呼べば亀子が降りて来てこの有様に気絶するだろう。これを思いあれを思って老人の脳髄は再び掻き乱れようとしている。今は自殺するしか方法がない。好し好し我は壁にこの頭を打ち砕いて死ぬだけだ。老人は既にこうしようと決めかけたが、又新しい思案が浮かんだ。

 アア死は簡単だ。何時でもできることだ。死ぬ前に松子が既に事切れたかどうか見届けなければならない。まだ虫の息があるなら介抱の見込みがないまでも医者を呼んで相当の手当てをする事はせめてもの罪滅ぼしだ。手当てもせずに犬死同様に捨てておいて、それがために助かるものを殺したと言われては死んでもまだ心に背く。先ず彼女の体を探ってみよう。まだ玉の緒の一脈をつなげるかも知れないとここに心を取り直しながら壁を離れて床に這い手探りながら死骸の方に近づくと、漸くにして手先に障るのは長く散り敷きたる乱れ髪である。

 この髪の毛を頼りにとして頭まで探り行き、老人は又たちまち震え上がった。
 「おやおや松子夫人は先刻俺がその顔を探った時確かに帽子被っていたがその死骸には帽子がない。はてなイヤ帽子は倒れる時に飛んだのだ。」
と言い、更に手を延ばして顔を探ると先ほど探った相貌とは何となく違うようだ。

 この時の老人の心の恐れは殆ど例えるものもない。
 「イヤイヤそうではない。違うと思う心のせいだ。松子夫人の顔には横傷あるからすぐに分かる。アノ傷は争われない。ドレ」
と言い隈なく顔を探り見るに傷らしいもの一つない。老人は踏み代えて、
「ヤヤこれはどうした。松子夫人の顔とは違うが、ココ、コレ私に殺されたお方、お前は何方(どなた)だ。」

 嗚呼(ああ)、嗚呼訳者もここに至って筆進まず。

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