nyoyasha55
如夜叉(にょやしゃ)
ボアゴベ著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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如夜叉 涙香小史 訳
第五十五回
画工(えかき)筆斎が何事を言い出すのだろうと長々も淡堂も耳を澄ますと、筆斎は語を継いで、
「丁度六年前の十一月の末であったが、僕の知人に長谷川と言う建築士が有って。」
(長)それは僕も知って居る。ワテネル街に住んでいる肥太った男だろう。
(筆)そうそう、その長谷川サ、ところがその長谷川が自分の持っている貸家を売り大金を受け取った所、どこかでその事を聞き知ったと見え、その夜の十二時過ぎに表の窓のガラスを破り何者か押し入る音が聞こえたので、長谷川は細君と共にベッドから飛び下り自分は大きなステッキを手に取り、細君は護身のピストルを引っさげて共にその所に行って見ると一人の曲者が早や窓の横木に上り片足を部屋の中に入れていた。
長谷川は出し抜けにその頭を目掛けて砕けるほどに殴り付けると細君もピストルを放ったから曲者は驚いて外へ落ちたが、その時夫婦とも寝巻きのままだったので追って出ることは出来ず窓から首を出し泥棒泥棒と叫んだけれど、通り合わす人はなし、窓の下には一人の相棒が待っていて今落ちた曲者を担ぎ上げそのまま逃げ去ったと言う事だが、
後で細君がその曲者のことを貴族の様な好い男であったと言ったので、長谷川が気を廻し、和女(そなた)の所に忍んで来た男ではなかったのかと言うと、細君は忍んで来る男に何でピストルを向けましょうと言い開き、終に一場の笑いで事は済んだが、これはもう長谷川の友達が皆知っている事実だから、僕のほかに証人は幾らでも居る。如何だ淡堂君、君の話と好く似ているじゃないか。
(淡)似ているばかりでない。全く一個だ。傷を受けた時刻と言い、様子と言い、更に曲者が好い男であったことと言い、全く符節を合わす如しだ。それに茶谷の腕にあったのは確かに女物のピストルの傷だから是が何より明白な証拠だ。
長々は嬉しそうに、
「君等がその様な大切な事件を知って居るとは実に思いも寄らなかった。これでもう大概は分ってしまう。第一茶谷はその様な悪事を知られているからその後なるべくお鞠に隠れていたところ、終に見付かって約束通り夫婦にしてくれとか何とか言われたから、それでは今夜アルツ街の家で会おうと言い、お鞠を招き入れて置いて『まあ坊』と二人で殺したのだ。お鞠の情夫を『まあ坊』が盗んだためお鞠が常に『まあ坊』を恨んでいたという事は先日筆斎君が話したから。
(筆)そうそうそれはもう僕が直接にお鞠から聞いたのだから確かだよ。
(淡)して見ると『松あ坊』のためにも茶谷のためにもお鞠は生かしては置かれない奴さね。二人で殺すのは当然だ。しかしそうすれば茶谷と『松あ坊』はお鞠を殺した後で夫婦になりそうなものなのに夫婦にならないのみか茶谷は別に亀子嬢を妻にしようと言い、『松あ坊』もそれを手伝い、今迄三峯老人の機嫌を取って居たのは如何言う事だろう。
(長)「それも分っているさ。茶谷は亀子の財産に目を付けこれを奪おうとしている所へ昔の色女『松あ坊』が露国から帰ったから、これを説き付け、愈々結婚の上は亀子の持参金を山分けにし、その上亀子を振り捨てるとか何とかいう約束を結び、それで『松あ坊』にも手伝わせて居たというもの。」
説き明かす長々の言葉を聞き淡堂は、
「なるほど」
と言って黙し、筆斎は驚いて、
「何だと、『松あ坊』が露国から帰って来たと。それは初めて聞く話しだが。」
と不思議がる。
(長)アノ捨苗夫人の家で会った軽根松子というのが『松あ坊』さ。
(筆)その様なことは無い。
(長)ナニ、僕は確かな証拠を幾つも持っている。彼奴(きゃつ)はもう『松あ坊』という本性を見破られたから長くこの国に居る事は出来ないだろう。
(筆)それは実に驚いた。成る程、そう言えばあの晩も何だか茶谷と馴れ馴れしいような所が見えた。だが君、アノ松子夫人はもうこの国には居ないのだぜ。
(長)何だと
(筆)イエサ、僕は昨夜も捨苗夫人の所を訪ねたが、その時夫人の話では軽根松子は英国から招かれて同国見物かたがた出発したと言った。
長々は腹の中で、
「フム、俺と三峯老人を恐れて逃げたのだナ」
と呟き、更に声を発して
「それは少しも構わないよ、僕の相手とするのは、『松あ坊』ではなく茶谷だから。」
(筆)でも『松あ坊』が居なければ君が幾ら茶谷を『松あ坊』の情夫だと言ったところで茶谷がそうでないと言い切ればそれまでだろう。
(長)ナニ僕はまだ外にも確かな証拠品を持っている。
(淡筆)証拠品とは
(長)茶谷の家紋の付いた指輪だ。これは茶谷が困った時に外の品と一緒にお鞠に渡して質に置かせ、それを今度『松あ坊』が請け出して帰り道で落として仕舞い、僕に拾われたと言う一件だから、質屋の帳面を調べればその手続きが分るのだ。特に此の頃の新聞にお皺婆の名前で広告が出ているだろう。
(筆)アア出ている。拾い主には千五百フランの褒美をやると。
(長)アノ広告が『松あ坊』から出ているのだ。
(筆)君は一廉(かど)の探偵だね。
(長)そうでもないが兎に角こうまで分れば直ぐに茶谷と戦争を始めるよ。
(筆)どうやって
(長)「これから淡堂君と共に茶谷のところを訪ね、彼に会ってそのお鞠を殺した事やその外の事が露見し悉(ことごと)く化けの皮が剥げたから亀子との結婚のことを取り消し、再び三峯老人の家に足踏みをするなと談じ付けてやる。彼もさる者で、かれこれ言い張るだろうから、その時淡堂君に彼の治療の時のことを言い出してもらい、僕は件の指輪を見せてグーの音も出ないように押し込める。」
と長々が熱心に説き立てれば筆斎も思わず勇み立ち、
「それは面白い、僕も一緒に行き、次第に由ったら長谷川に入った泥棒の事を言ってやろう。」
(長)それは益々有り難い。だから君に茶谷の住家を知らせてくれと言ったのさ。
(筆)茶谷の住家は知らないけれど、今から行けば彼奴は必ずクラブに居る。もし居なければクラブで彼奴の住家を聞くとしようじゃないか。
(淡)それが好いだろう。
(長)そうしよう。
とこれで相談は一決したので三人ここに一隊となり、愈々茶谷と談判を開こうとする。これで先ずこの家の勘定を済ませ勇み進んで三人ともクラブを指して出発したが、果たして彼の茶谷立夫をグーの音もでないほどに遣り込められるか。如何に。
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