nyoyasha66
如夜叉(にょやしゃ)
ボアゴベ著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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如夜叉 涙香小史 訳
第六十六回
茶谷立夫の鬼々しい性質はここに至って全く現れた。亀子も今までは彼を悠長な貴公子とばかり思っていたが、我が身を手込めにしようとする彼の剣幕を見れば不敵無頼の悪人である。どうしてこのような悪人に身を任せることが出来ようかと興も覚め愛想も尽きたが、そうは言っても我が身は如何にしてこの魔道から逃れ出るべきか。
留まれば彼の手込めに恥ずかしめられるだろう。逃げ出すにも頼る人もいない。運はただ一丁のピストルにある。生きて辱めに会うよりも死して乙女の操を守る以外にないと胸に当てたピストルの引き金に手を掛けて、
「一歩でも近づけば私は自害します。」
断然として言い放つその声、その様子、十分に思い決したごとくにして、顔は青ざめ、唇は震え動く、流石の立夫も今亀子を死なせてはと少し驚いた様に一足後ろに退いた。
しかし誰一人亀子の叫び声に答える者はなく、二階に上った松子夫人は音もなく、沙汰もなく、窓の外には梢を吹く風の声のみ。亀子はいずれにしてもこの部屋を去り、戸外に出る一方なれば、出た上で頼る人が無くてもままよ、身の恥ずかしめを受けるのに勝ると早くも思い定めながら、立夫が一足引いたのを幸いになおピストル当てたままでそろそろと歩き出すと、立夫は隙を見て背後からそのピストルを奪おうとするように油断もなく従い来る。
亀子は行き、立夫は追い、ようやく玄関まで出て来たので、亀子は今までの波風に体の力も尽きたのか、震える足がよろけて思わず壁に寄れば、立夫はここぞと見て取って、またも背後から飛びかかろうとする。間髪を入れずというこの危うい瞬間に、
「これ曲者、邪魔をすると命がないぞと。」
と叱る声が庭の方から飛んで来た。
亀子は聞きなれない声に又悪人の加勢が来たかと驚き、立夫はひたすらに怪しんで、その声の聞こえた方をきっと見やる。その時間も置かず、たちまち彼方から先ほど亀子を連れて来た彼の紳士の胸ぐらを押し捉え茂を踏み分ける様にして入り来る者がいた。亀子はこの意外な有様に益々我が身の危うさ見てよろめいた足を踏みしめ、又もピストルを取り直して胸に当てれば、立夫も誰とも知れない邪魔者を恨む様に目を開いて立ち向かう。
この天来の客は何者だろう。やがて紳士を引き立てたまま亀子の前まで出たのを見ると、彼の画工(えかき)の筆斎であった。茶谷は驚きかつ怒り、掴みかからん剣幕なれど、筆斎はこれに目も止めず直ぐに亀子の前に立ち、
「貴方を連れに参りました。三峯老人が心配して狂気のようになっているのを知りませんか。」
と言う。
亀子は実に地獄に仏。
「早く連れて行ってくださいまし。」
と言うのさえも涙声である。今までただ怒るばかりでほとんどなすところのなかった茶谷立夫も以外の外敵にぎょっとしながら、
「これはけしからん。何(ど)ういう訳で他人の家へ乱入します。」
(筆)「悪人に誘(おび)き出されこの様な所へ連れ込まれて恥ずかしめを受けようとする少女を救うのに他人の咎めは受けません。」
と筆斎がやり返すと茶谷はただこの一挙にて我が望みも我が名誉も我が財産も総て運び去られたのを知り、烈火のごとく怒り立ち、
「無礼な奴だ」
と言いながら迫り寄せると、筆斎も持っているピストルを彼に向けて、
「一足でも動けば射殺します。狂犬同様の者を射殺すのに容赦はない。これ伯爵、今夜で約束の一週間が切れるから死にもの狂いにどのような事を仕出かすかと内々この筆斎が見張っていたのを知りませんか。横傷の『松あ坊』と言う恐ろしい綽名の付いた己(おのれ)の情婦松子夫人と語らい合わせ、巧みに亀子嬢をこの別荘に引き込んだ事は満更の他人でもないこの悪紳士を責め問うて、既に白状させましたから、今更何と言い立てても無益です。
私が忠告するまでもないが一週間の猶予は今日までですから、その積りで今夜だけ神妙に成るのが良いでしょう。サア嬢様帰りましょう。帰りましょう。貴方を連れ出した紳士がお宅までお供をします。」
と言うと、紳士は何故か非常に筆斎を恐れる者のように、一言も返すことが出来ない。
又茶谷立夫に向かっても一言も発せず。筆斎が言うがままに先に立ち門の方に向かおうとする。亀子は今まで張り詰めた心も緩みほとんど身を支えることも出来ない様子なので、筆斎は我が手を差し延べてこれに縋らせ、かつは今まで亀子が持っていたピストルを受け取って、
「アアこれが成るほど茶谷が自殺すると言って貴方を脅したピストルですね。今この様なものを彼奴に返すのは泥棒に鍵を貸すようなものですから、私が預かっておきましょう。」
と言い自らこれをも腰に納め、更に立夫に打ち向かいて、
「男に二言はないから、この上私の後をつけてくれば必ず射殺しますよ。この通り見破られた後でかれこれいうより、二階に『松あ坊』が待って居ましょうから、早くその傍に行き、一緒に外国へ出奔する用意をなさい。約束の通り明日は私共から警察へ訴えますから。逃げ遅れるとすぐ警官に捕まりますぞ。」
と脅かす様に嘲る様に言うと、茶谷もなかなかの知れものなので、
「それは余計なお世話です。外国へ出奔するような悪事はこの身にはありませんから訴えるなら訴えるがよい。貴方こそ紳士ならば明日の正午にクラブまでおいでなさい。私が待っていて男らしく決闘申込みますから。」
(筆)面白い。その言葉を忘れないように。
(茶)それは私の言う事です。貴方と貴方の友達がどれほどの勇気を持っているか世間に試験して見せるから、その時に赤面なさるな。
(筆)口前よりも腕前を拝見しましょう。
こう言って立ち去るに茶谷は又後ろより声を発して、
「その代わり貴方を戒めて置きますが、もし貴方がたの方で根もない事を警察に訴えればこちらでもその気になり子殺しの罪を以て三峯老人を訴えますから。その時に後悔なさるな。」
この毒々しい一言には筆斎も驚いて、エ、なんと」
(茶)「イヤ隠しても無益です。三峯老人が亀子を殺そうとした事は亀子が立派に言い立てました。その上亀子の胸の傷が何よりの証拠ですから。どの判事でも取り上げます。」
と傍若無人に言い放った。
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