nyoyasha69
如夜叉(にょやしゃ)
ボアゴベ著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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如夜叉 涙香小史 訳
第六十九回
鶴子が待つ人ありと言うのを聞いて長々はもしや『松あ坊』のことではないかと心配でならないので一足踏み留まり、後ろを向き、
「鶴子さん、その待ち人とは先ほどおっしゃった貴夫人でしょう。もしそれならば待たない方が好いと思いますが。」
と警告すると、
(鶴)ナニ、大丈夫ですよ。その貴夫人ばかりではありません。ほかにまだ一人来る人があるのですよ。
(長)エ他に来る人とは誰ですか。
鶴子は又も長々をじらすように、
「オヤオヤ大層根掘り葉掘り聞きたがりますね。まだ貴方の妻になったというのではないですから、訪ねて来る人を一々貴方に届け出るには及びません。」
(長)それはそうですが、
(鶴)何だか気がもめると言うのですか。それなら安心のため聞かせましょう。私の待っているのは貴方も知っている哀れな女です。
(長)哀れな女とは。
(鶴)ソレ何時か貴方が質屋の前で一ルイの金を恵んでやったお紋という女でさあね。
(長)オヤお紋、あの鼻竹の妻ですか。亀子さんがこれまで色々の仕事をさせてやったのに怪我して後は何事も頼まないから一向尋ねて来ない思えば貴方のご厄介になっていますか。
(鶴)「ナニ厄介と言って私は亀子さんの様に金持ちではありませんから自分で恵んでやることは出来ませんが、その代わり親しい先が沢山ありますから毛糸編み物の注文を取ってやったのです。今夜は一口だけ編み上げて持ってくるはずですのに、未だに来ないのは何うした訳でしょう。もうほどなく参りましょう。」
と詳しく聞いて長々はようやく安心したがまだ何となく気にかかるので、
「そのお紋ならば良いけれど貴夫人はには必ずお会いなさるな。そのうちに私が『松あ坊』か『松あ坊』でないかを見届けてあげますから。」
鶴子はこの言葉に十分な返事を与えなかったが、そばにいる耕次郎が心急くようなので、長々はその意を察してこれで耕次郎と共にこの部屋を立ち出てながら階段を降りかかる。このうちにも耕次郎は今夜こそ我が生涯の幸不幸の分かれる所と心配に耐えられない様子で顔色さえ自ずから変わって見えるので、長々は雑談に紛らわし、それを励ましながら中程まで降りた頃、下から誰か登って来る足音が聞こえるので、もしやと思って打ち見やると、薄暗がりにもソレとわかる確かに女の姿なので、階段の踊り場に足を止めその来るのを待っていた。
女は早くもその所に達し、長々の顔を見て、
「オヤ、旦那様」
と言う。長々もその顔を認め、
「オオお紋さんか。今も鶴子嬢がお前の噂をして待っていた。」
と言ううちにも気が付くとお紋は恰も何者にか驚かされたように、ワナワナと震えているので、
「やお前は何かしたのか。」
と問う。
(紋)「何うもしませんが不思議なことがありますので。鶴子様に知らせて用心をおさせ申そうと思います。」
長々は益々気に掛かり、
「不思議な事とは何だ。」
(紋)いえね、事に由ると私の私の思い違いかも知れませんが、下の出口に嬢さまを待ち伏せしている者があります。
(長)成程それは変だなア。
(紋)実はこうなんですよ。私がこの家に入る時、立派な服を着た貴夫人が一足先に入って帳場に行き、春野鶴子さんは居りますかと問うのです。
(長)その夫人はベールをしていたか。
(紋)イイエ、ベールはしていません。一寸見たところでは三十位の美しい方ですが、帳場の者が、
「ハイ、只今お内ですけれど、多分散歩にお出なさる時刻ですから早く登って行かなければ間に合わないでしょう。」
と返事をしますと、その夫人は急いで上りそうなものですのに、オヤそうですか、折角の散歩を妨げ申すのも何ですから明朝早く伺いましょうと言捨てて帰りました。
(長)何だ帰ったのか。
(紋)ハイ帰るように見せかけましたが、実は帰らず待ち伏せしているのです。私はその時丁度階段までのぼりかけていましたが、余り夫人が美しいものですから思わず振り向いて背後を見ますと、その夫人は開いてある大戸と壁の間にこっそり隠れました。ハイそのまま出ては来ないのです。嬢様が散歩に出る所を聞きそれでは明朝又来ようと言いながら帰った振りをして戸の背後に隠れるとは不思議ではありませんか。訳は知らないが私はきっと嬢さまを待ち伏せするのに違いないと思い、その事をお知らせ申すため急いで上がって来ました。
長々はきっとこれに違いないと思い、耕次郎に目配せをしながらなおもお紋に打ち向かって、
「アアそれは好く知らせてくれた。」
と言うと耕次郎は目配せの意を十分には覚ることが出来ないように、
「戸の隙に隠れたと言ってそれが鶴子を待ち伏せたと言うことにも限らないだろう。詰まらないことを大げさに知らせて驚かせるより黙っているが良い。
(長)何貴方これがきっと松子夫人ですよ。私が先刻言った通り復讐に来たのです。
(耕)よしや復讐に来たにしろ知れたものです。たかが女の事ではありませんか。
(長)中々どうして、女でも女に寄ります。男よりも恐ろしい事は今までの手際から分かっていましょう。それにもうこの国にも住まれないことになり、行きがけの駄賃という積りで来ているから何のような事を仕出かすか分かりません。
お紋はこの言葉を聞き、
「オヤ、その様な恐ろしい女ですか。それではこのまま置かれませんね。」
(長)そうさ、これから行って追い出してやる。
耕次郎もその気になったか、
「兎に角良家の店先に来て隠れているとはそれだけで既に失礼と言うものだから追い出すのに問題はない。」
(紋)では私が先に立って行きましょう。隠れた場所は私より他に知っている者がないから。私がその横手に行きまだ隠れていると見れば手を上げて合図しますから、貴女方が来て下さい。
(長)好し、好し、
(紋)ではお先に参ります。
こう言ってお紋は先に立って降りて行きながらやがて店先の所に達し、敷居を一足外に踏み越え、横手にある戸の隙を覗き見て、
「ここに隠れていますよ。」
と言わないばかりに合図の片手を差し上げた。
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