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nyoyasha76

如夜叉(にょやしゃ)

ボアゴベ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2012. 6.22

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如夜叉              涙香小史 訳

                  第七十六回 

 長々生と茶谷立夫は劍と剣とを打ち違いたまま、少しの間はただ睨み合うだけだったが、これでは駄目だと思ったか、茶谷は少しの隙を見て長々の胴の辺りを突いて掛かる。長々は、
 「上手い」
と言って払い退けると、これを最初の手解きとして引き続いて打ち込んで来た。茶谷の切っ先は雨のごとく、霰のごとし。或いは斜めから一瞬の隙もなく突いて掛かる。その危ういことは言うにおよばず、傍にある筆斎は迚(とて)も長々の及ばないのを見、手に冷や汗握るばかり。

 しかし長々は落ち着いて右に避け左に返し未だ一太刀さえも我が身に触らせていない。その間機を見て初めて一突き襲ったが、これも伯爵の胴の辺りに届きそうだったが払われた。
 「エエ、低すぎた。俺の狙ったのは胴ではなかったのに。」
と長々が呟けば、茶谷も今までは唯長々の手並みを試みるために目をちらつかせるごとくあしらっていたが、長々の落ち着いた様子を見ては、一通りの敵ではないと知り、うかつなことをすればその隙に我が身が襲われることに気付いたので、この上は唯一思いに突き殺さんと意気込んで、これより全く剣法を変え、唯長々の急所のみを見透かして襲って来た。

 手元は狂わず、足元乱れず、出没総て法にかなっている。長々はただ受身に立ち、何とか我が得意の手を施す時のあれかしとそれのみを狙っていたが彼もさるもの。その手には乗らず打ちまくり突きまくる。この様子ではあと五分間も続いたらば長々の身の上は覚束無いだろうと怪しまれる。長々もそれを察してか、

 「伯爵、その様に焦っては互いに傷を負うだけでだけで命を取ることは出来ません。かすり傷が所々にあっては後で撃剣をしたと言っても警察官に決闘と疑われます。胸でも喉でも一思いにお突きなさい。」
と冷やかすと、茶谷は、
 「何を小癪な」
と言い何倍もの熱心を加えきた。この時戸の傍で番をしていた医師淡堂は少し驚いた様子で、

 「両君、早く勝負を付けないとそれ誰だか外からこの部屋の戸を叩いています。」
と言う。成程無理に戸を押し開けようとする音が聞こえるので長々はこれまでと決心し、今までの受身を変じて、一散に打って入ると、その剣先鋭いことは実に又一通りでなく、ほとんど例えるものもなく、茶谷の備えも将に破れようとするばかりだったが、茶谷も全く必死となり長々の肺の所を目掛けて一文字に突こうとする。

 長々は手早くこれを払う太刀で、日頃得意の手を施し向こうが防ぐ間のない内に茶谷の喉をグッと刺す。狙いは違わず切っ先は深く彼が首を貫いたので、彼、この一打ちにて絶息し、
 「ウン」
とも言わず仰向け様に打ち倒れる。長々はそれを見て、
 「サア、これで村越お鞠の敵を打った。ドクトル、早くその戸を開き給え。」
と言う。

 淡堂は言われるまでもなく十分機転の利く男なので、前もって打ち合わせた駆け引きを少しも忘れず、音のしない様に戸の錠を外して置き、茶谷の倒れた所に駆け付けた。長々はその間に筆斎に打ち向かい、
 「ここでグズグズしていては打ち合わせた話も嘘と思われるから、誰でも早く会員を呼んで来給え。」

 筆斎も血の色を見て非常に驚いたとは言え、なおその本性を失わず言葉に応じて戸の方に走り寄ると、彼がまだ開かないうちに外から押し開けて入来たのは別人ならぬ給仕の大糟であった。
 (筆)「早く早く医者でも誰でも読んで来てくれ。撃剣の稽古から飛んだ大怪我ができたから。」

 大糟は部屋の様子を一目見て、
 「ヘン大怪我もないものだ。もう死んでしまっているわ。伯爵を殺して、俺の貸金をどうしてくれる。」
と小声にて呟くのは流石に彼も痴れ者なり。長々は急がわしく、
 「イヤ、それは心配に及ばないよ。私は十万フラン近い金を持っているから残らずお前に上げてしまうよ。」
 (大)「それじゃ先ず安心だ。人にも全く撃剣の稽古だったと言って置きましょう。内から錠を下ろして人が入れないようにしてあったと言えば誰も通例の決闘とは思わないけれど、幸い私の他にその事を知った者もないから、私の了見次第で何でもなります。」
と言って又も長々の顔を眺めるのは脅して念を押すためである。

 (長)「もしや決闘にしても立会人があるのだから何も恐ることはないがそれにしても私の金はお前の物だ。」
とこう言ううちに筆斎は早やクラブの幹事を呼んで来たが、幹事は有様を見て打ち驚き、
 「アアこれは大変だ。茶谷の死んだのは詰まり当人の幸いだろうが、このクラブは事に由ると警察から差し止められるかも知れない。」

 この時淡堂は傷所を検め終わって、
 「もう全く事が切れた。この傷では倒れると同時に死んだのだ。全体先の折れた剣などで撃剣の稽古をするのは悪い。ややともするとこの様な間違いを引き起こすから。」
 幹事は三人の顔を平均に眺め分け、全く稽古の過ちでしょうね。 (筆)勿論です。
 (長)私の突きを受け損じたものですから剣が上の方へ滑って喉へ行ったのです。

 幹事は感心の体にて、
 「そうでしょう。茶谷の手並みを知っている者は必ず稽古の過ちだと思います。彼奴(きゃつ)は過ちででもなければ中々殺される奴じゃない。それにしても警察には貴方方が十分に説明してくれるでしょうね。」
 (筆)私が説明します。直ぐに警官を呼びにやって頂きましょう。この通り茶谷が稽古着を着たままこれに剣を持って倒れているところを見れば警官も全く稽古の過ちと承知します。

 大糟も横合いより口を出し、
 「それに誰よりも私が証人です。稽古という証拠は入口の戸を開け放して有りましたもの」
と反対の事を言い、三人の顔をジロリと見る。

 こうしているうちに警察官も出張して来て様々に調べたが全く稽古の過ちに相違なく、一つ間違いば、長々が殺されるかも知れないところで、特に茶谷は稽古着に身を固め、長々はその用意もせず平服のままだった事などが分かったので、警官は三人に向かい何時裁判所から呼び出されるかも知れないので、その時は早速出頭しなさいと言い渡し、このままで三人を放免した。

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