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nyoyasha9

如夜叉(にょやしゃ)

ボアゴベ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2012. 4.15

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如夜叉    涙香小子訳

                         第九回 

 「まァ坊とハ何者だ」
と長々生が迫込(せきこ)んで問うと栗川は急ぎもせず、
 「丁度今から八年前だ。僕が署長の命を受けて『まァ坊』を見張っていたが」
 (長)「フム警察からその様に目を付けられると言うのは泥棒でもする奴かね。」
 (栗)「ナニ『まァ坊』が泥棒をしたと言う事は聞かないが併し警察から目を付けられる程だから生真面目の女じゃない」
 (長)「では何だ」
 (栗)「踊りの名人さ。其の中でも殊に活惚(かっぽれ)が上手で毎(いつ)も大勢のごろつきを手下に連れ手下と共に方々の公園を踊って廻ったから、君なども知って居相なものだ。君も随分踊りは旨(うまい)いじゃないか」

 (長)「僕も活惚(かっぽれ)踊りは大好きで公園で夜会のある時には群衆に交じって踊ったこともあるけれど、『まァ坊』というのは見たこともない。併し其の『まァ坊』が松子夫人に似ているというのだね」
 (長)「似ているにも何もソックリだ。併しアノ夫人が『まァ坊』でない証拠は第一年が違うよ。『まァ坊』は其の頃確かに三十一、二であったから今生きて居れば最(も)う四十だ。アノ夫人は今ヤッと三十位じないか」
 (長)「イヤ女の年ばかりは当てにならないよ。アノ夫人も若く見えるけれど決して三十五から下ではない」

 (栗)「夫(そ)れに『まァ坊』は其の頬に鼻から耳の方に掛けて切り傷があった。何でも初めての色男に傷付けられたという事だが併し不思議な事には旨(うま)く其の傷を塗り隠して居たよ。素人の目には見えないけれど僕の目で見ると能(よ)く見えたが、アノ夫人には其の傷がない」
 (長)「あるかないか未だ分からない」
 (栗)「では君は彼(あ)の夫人を『まァ坊』だと言うのか」
 (長)「イヤ未だ何とも言いはしないが巴里(パリ)と言う所は隋分意外の事がある所だから疑って見る丈(だけ)サ」  

 (栗)「夫(それ)にね、『まァ坊』と言うのは恐ろしく活発な女で物の言いッ振りからしてアノ夫人とは丸で違う。殊に乞食の真似をしても貴夫人の真似はしない。アノ夫人は丸で貴夫人じゃないか」
と栗川が話すうち長々生は松子夫人の方を眺め其の顔の皮の底まで見破らんとする如く眼をみはった。其の間に松子夫人は早や一同と親しくなり亀子とも話をすれば茶谷立夫とも言葉を交わす。長々生は又栗川に向かって問いを発し、
 「成る程この彫刻師の鋭い眼で睨んでもあの夫人の顔に古傷があるとは思はれない。シタが『まァ坊』はその後どうなった」

 (栗)「どうなったか全く姿を隠して仕舞った。八年前の秋であったが門苫取(モントマトル)の公園で宵から朝まで息も継かずに『まァ坊』が四百くさり踊ったが其の時は実に誰も彼もその勇気に驚いて仕舞ったよ。夫(それ)が此(こ)の巴里の暇乞(いとまごい)であったと見え、夫から此方(こっち)姿が見えない。僕の考えでは米国へ出奔したと思う」  
 (長)「米国(アメリカ)と見せ掛けて随分露国(ロシア)に行く奴もあるからねえ。彼の夫人はこの頃露国から帰り立てだ」  

 (栗)「併し君、幾ら疑っても『まァ坊』じゃない。『まァ坊』ならば第一この家などに足向けの出来る身分でないから」    
 (長)「ナニ松子夫人の身分も何だか分からないよ。唯捨苗夫人が連れて来たと言うだけで誰も深く知りはしない。全体君、『まァ坊』の身分は何だ」  
 (栗)身分は何だった知らぬが金の或るときはパッパと使うので破落戸社会(ごろつきなかま)では女王の如く敬っていた。踊りに出るのでも非常な金目の服を着てさ」  

 (長)それで破落戸社会(ごろつきなかま)に情夫(いろおとこ)でもあッたのか」
 (栗川)「ナニ破落戸社会(ごろつきなかま)を情夫にする様な其(そん)な馬鹿じゃない。アレでも金満家を目掛けて居たよ。けれども破落戸(ごろつき)が『まァ坊』に服して居た事ハ又感心な程のもので夫(それ)も畢竟(ひっきょう)は『まァ坊』の金離れが好いからの事ではあるが、『まァ坊』の為といえば何(ど)の様な事でもした。僕がある時『まァ坊』を屯所に拘引したが、其の時などは破落戸(ごろつき)が十人あまり道に待ち伏せして殆ど僕を半殺しの目に逢わせた」

 長々生は暫(しば)し考え「個奴(こいつ)は中々面白い、猶(ま)だ色々と聞きたい事もあるが何しろ茲(ここ)では話も出来ない。今夜君六時頃から馬尾蔵(ばびぞう)の酒店へ来て呉れないか。ロスチウ街の馬尾蔵の酒店を知っているだろう」  

 (栗)「知って居るとも彼所(あすこ)は『まァ坊』が毎(いつ)も踊りの帰りに破落戸(ごろつき)を供応した所で随分乱暴をして皿小鉢ばどを壊した事もあるが其の度『まァ坊』は充分に金を出して償ったから馬尾蔵(ばびぞう)」は『まァ坊』を第一のお得意の様に崇めていた」  

 (長)「夫れは猶更(なおさら)妙だよ。馬尾蔵(ばびぞう)に聞けば又色々な事が分かるだろう。兎に角来たまへ。きっかり六時に好いかい僕が晩飯を奢るから」  
 (栗)「好し行う。だが僕は六時半でなければ行けない。夫(それ)に十一時には公園に踊りがあるから夫(それ)を見に行く約束だ」  

 (長)「夫ハ益々妙だ僕も十一時から公園に行くとしよう」   二人は茲に約束を決めたが馬尾蔵(ばびぞう)」の酒店で果たして如何なる事があるだろう。其れは後の物語とし二人がこのように語らふうちにも室(へや)の彼方にいる一群れは雑談益々興に入り二人が事には気が付かず、殊に捨苗夫人は声高く、
 「爾(そう)ですよ茶谷伯爵も男には珍しい好い声で殊に音楽の方は御修行を詰(つん)で居ますから伯爵と松ちゃんの掛け合いは真に聞者(ききもの)です」
と言う。此方(こちら)に居る長々生は、

 「聞たまへ栗川君、捨苗夫人は最(も)う打ち解けて松子夫人を松ちゃんと言うじゃないか。今に『松(ま)ァ坊』と云うかも知れぬぜ」  
 栗川は返事なし。彼方に居る茶谷伯爵は捨苗夫人の勧めるのを迷惑そうに、
 「とても私が軽根夫人と掛け合いに歌う事は出来ません」
と挨拶し、松子夫人は、
 「イエ伯爵と一緒なら私の名誉です是非如何か御一緒に願います。夫れに私は捨苗夫人の家で歌えば当分は歌わない積りです。兎に角自分の気に入った住居を見出し居所の決まるまでは何だか落ち着きませんから」

 三峯老人は何とかしてこの美人の機嫌を取り、手探りにて彫刻する其の経験を施さんと思うために何時もより愛想能(よく)、
 「若(も)しお引越しになるならば是非何(ど)うか此の近辺へ入(いらつ)しゃる様に願います。ですが唯今のお住まいは」
 (松)「アンジロー街の角です。取敢えず借りたのですが小粋には出来て居ますけれど何分にも手狭ですから」
 (三峯)「此(こ)の近辺に屹度(きっと)お気きに召す貸家がありますよ。私が探させて置きます」

 此方なる長々生は、
 「フム松子夫人はアンジョー街の角の家か、好し好し之も覚えて置けば何かの為になるだろう」
と手帳を出して書留る様子は殆(ほとん)ど探偵ではないかと怪まれる。其の内に栗川巡査は早や巨像の後ろを伝い店先に出で去って行ったので、長々生も其の後を追い、立ち去ろうとすると巨像の下に控えていた春野鶴子は長々生の前に立ち 、

 「オヤ最(もう)お帰りなさるの、今に私の兄が参りますが」 と引き留めたそうな言葉を聞き、長々生は襟元よりゾッとして
 「イエ未だ行きは仕ません。貴女と兄さんばかりなら私しは朝まででも茲に居ますが、アノ通り気に食わぬ客仁ばかりですから」
 鶴子も其の意を察してか、
 「私も何だか心配ですよ。亀子さんがアノ様な人々に交じるかと思うと」

 (長)「交わる丈なら猶(まだ)しもアノ生ッ白い男と結婚すると云うのです。アノ男が何(ど)うして師匠の気に入ったのか。私なら断然跳ね付けてしまいますけれど、生憎師匠が私には相談しないから仕方がありません。併し兄さんは私に何か御用ですか」
 (鶴)「ハイお頼みがあると云っていました」
 (長)「エ私に頼み、之は有難い本当に夢の様だ併し金を貸せとか何とか云う御相談なら今から断って置きますよ。金と云っては師匠から貰う給金の外に一文もない男ですから」
と包み隠さない言いかたに鶴子は思わず笑みを催し、   

 「ナニ其の様なお頼みではありません。此の次の日曜日に兄と一緒にルーブルの美術館を見に行くのです。其の時貴方をご一緒に願へば彫刻の事など詳しいからいろいろ説き聞かせて戴くことが出来ようかと思いまして。」
 (長)成る程夫で私しへ一緒に行ってくれと。其れなら私の方からお願い申します。貴方とお兄さんのお伴なら世界の果てまでも参ります。全体云えばアノ伯爵とか云う野郎の代わりに兄さんが亀子さんの婿になれば師匠も幸せですけれど」
と思う儘(まま)を口に出だせば鶴子も有難く思う様子だが、彼方の人々に聞こえてはならずと目を以って長々生の口を留めた。

 長々生は更に言いたい事は山々なれど成る程茲で亀子の結婚などを噂すべきではないので惜しき思いを後に残しそのまま店から立ち去った。この時奥の方を見れば人々の様子もやや変わり、捨苗夫人と松子夫人は老人の傍に在るが茶谷立夫は亀子と共に彼方にある室の隅に行き、何か密々(ひそひそ)と語らっているが何を話しているのかは分からない。二人は如何なる相談をなしつつあるのだろう。何事かを伯爵が熱心に亀子に勧めつつある事は其の様子で察せられる。

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