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島の娘 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(十) 露の花
旅人の首に掛けた鰐革(わにがわ)の嚢(ふくろ)を盗んだ為め、此の家に天罰が続くとは、事実であるか虚言(そらごと)であるか、孰(いず)れとも判じ兼ねるけれど、梨英は妙に深く感動した。
此の夜、寝た後も、鰐革の其の嚢が今も其のまま此の家に在るだろうか、中の宝と云うのは何の様な品だろうなどと云う疑問まで心に浮かび、其の旅人が絶望して、再び海に飛び込もうとする有様をさえ夢に見た。
けれど、翌朝になるともう気にも留まらず、其れよりも却(かえ)って、我身が此の家に泊まった事が、穏やかであるだろうかと疑い始めた。
昨日捨部竹里(すてべちくり)が此の身を警(いまし)めた時には、先方の好意を空しくしない為に泊まるのだ、などと答えたけれど、あれは唯此の島に、長く留まり度いと云う希望に駆られ、殆ど口から出任せに答えた様な者である。先方の好意と言っても、実は当年十五歳の少女が、此の身を引き留めたに過ぎ無い。其れも或いは一時の愛想と云う者で、真実に引き留めたのでは無いかも知れ無い。
其の愛想を言葉質に取り、荷物まで取り寄せて泊まり込んだのは、成るほど竹里の云った通り、此の身は常識に欠けて居る。若しも網守子(あもりこ)に後見人でもあって、此の身に何故泊まり込んだかと問うたなら、何とも答える言葉が無い。今日は何うしても、厚く礼を述べて、立ち去らなければ成ら無い。
この様に思いながら、起きて衣を改め、庭の面に歩み出ると、見渡す限り果ても無い大西洋の朝靄が、登る日の光に紅く白く薄れ行き、其の間から一つ一つに島々の生まれ出る景色が、心を恍惚とさせる許りである。
アア此の様な絶景に、早や分かれを告げなければならないかと思うと、昨日霊感に打たれた時と違い、悄然として心が沈んだ。けれど仕方が無いと諦め、更に引き返して、家の横手に出ると、露を帯びた草花を両の手に束ね持ち、嬉しそうに網守子が走って来た。其の様子が、
「オオ兄さん。」
とも言い度いほどに親しそうに見え、此方も、
「オオ、妹か。」
と答え度い様な気がする。此の様に打ち解けた心持ちは、煩わしい都に居ては、一年共に住んでも出る者では無い。
「早いのねえ。もう起き成さったの。」
と梨英を見上げる網守子の顔を見ると、昨夜までは爾(そう)も思わなかったが、他日、必ず余ほどの美人に為るに違いない輪郭を備え、其れは無邪気な心と清い境遇とが照らし出され、真に手に持っている、露の花よりも美しく思われる。
梨「お陰で大層良く眠りましたよ。」
網「私は朝の食卓を飾ろうと思い、裏の畑で此の様に花を摘んでーー。」
梨「イヤ、其の様に心配なさるな。私は後ほどお分かれして帰りますから。」
網守子は唯、
「アレ先ア。」
と言った切である。
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