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島の娘 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(百) 一人の客を通した
この様に蛭田江南を追い払って、網守子は一時勝ち誇る様な嬉しい心が胸に満ちた。けれど其れは少しの間であった。
やがて思い返して見ると、自分の様な此の都に何の親しい人も無い、言わば旅烏とも言うべき様な一少女が、当時ロンドン第一の才子とも成功者とも言われて居る、蛭田江南の様な者を敵として、少しも危うい事無しに済むであろうか。
自分は散々に彼を責め、彼を罵(ののし)った報いとして、彼から何の様な復讐を向けられようとも、厭(いと)いはしないとして、若し其の復讐が、路田梨英や柳本兄妹などに向かう様にでもなれば、自分の今日の仕向方が、若しやとんでも無い結果を引き起こすことに成りはしないだろうか。
此の様に思うと、何だか恐ろしい様な、イヤ恐ろしいと言うのでは無いが、何だか重大な、容易ならない運命が自分の身にまつわり始めた様な気がする。其の心持は是れと云って譬(たと)え様が無いけれど、若しも目に見えな蜘蛛の巣が、自分を巻き初めたならば、此の様な気持ちがするのでは有るまいかとも疑われる。
何(なん)にしても此のままでは居られない、早く家に帰って、静かに考えて見なければ成らないと、やがて此の所を立ち去って、我が家に帰り、居間に籠って本末を考え初めた。
勿論自分が彼れ江南を辱めたのは、余計な事では無い。路田梨英や柳本兄妹を憐れむが為めに、止むを得ずあの様な挙動に及んだのである。自分が彼江南の秘密を知ったのは、偶然の事で、何も初めから、彼の秘密を知り度いと思って、取り掛かった訳では無いけれど、奇妙に運命の手が自分を導き、自然に彼の秘密が分かる様な場合に、立ち到らせて了(しま)ったのである。
そうして愈々(いよいよ)分かって見れば、知らない顔で居られないのは、当然ではないだろうか。イヤ、若しも其の秘密が、少しも自分の大事に思う人達の身に、関係が無いならば、自分は何も江南などの身の秘密を、訐(あば)き度くも知り度くも無い。
寧(むし)ろ自分から、勉めて忘れて了い度い程にも思うであらう。けれど、其の秘密の為に、自分の親友が、世に又と無いほどの損害を蒙って居る以上は、そうは行かない。ここで自分が引き受けて戦わなければ、梨英でも阿一でも小笛でも、生涯浮かぶ瀬が無いでは無いか。こう思うと、少しも悔いる所は無い。
自分は友人の為に、しなければ成らない親切を、尽くしたに止まる。此の後も、此の親切を続けて行かなければ成らない。とは云え、其の友人が、イヤ友人の中の第一に位する路田梨英が、今は何所に居るかも分からない。彼が居て呉れれば、相談の仕様も有るのにと、切に路田梨英を恋しく思い初めた所へ、取り次ぎの女が一人の客を通した。
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