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島の娘 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(百五) 詐欺の網
唐崎夫人は、多弁(おしゃべり)では有るけれど、親切な正直な人である。世間にはよく、真事(まこと)と嘘事(そらごと)とを取り雑(まぜ)て喋り立てる、お弁ちゃらとやらの婦人も有るけれど、其れとは違う。とりわけ上流社会の、厳しい几帳面な空気に慣れて居るので、自分に対して、嘘でも吐く人が有れば、腹を立てて、随分絶交もし兼ねない程である。
其れだから、自分が江南に騙(だま)されたと知り、腹立たしそうにしばらく顔を赤くしたが、頓(やが)て静かに考えながら、
「彼(あ)の江南が、貴女へ縁談を申し込んだのは今朝ですか。」
網「そうです。」
唐「今朝までは、縁談の事を仄(ほの)めかせた事も無いのですか。」
網「ハイ、少しも其の様な事は有りません。」
唐「其れでは全く私を騙したに相違無い。私へ言ったのは、一昨日ですよ。実は寒村網守嬢と縁談が出来ましたので、貴女だけへは、内々でお話ししますなどと云い、其の後で、未だ世間へは発表しないから、暫くは誰にも言って呉れるなと、口留めをしたのです。先ア何と言う嘘吐(つ)きでしょう。」
網守子は江南が是れ位の嘘を吐いても、今更驚きはしないけれど、有りもしない縁談を、有った様に言い触らされては、腹が立つ。是を其のまま捨て置く分けには行かない。
「唐橋夫人、私は何うすれば良いのでしょう。その様な事を言い触らされては迷惑ですが。」
唐「其れは最もです。外の事とは違い、唯捨てて置く訳には行きません。然る可(べ)き人を遣って、談判し、以後を慎しませるのが宜しいのです。然る可き人が無ければ、手紙で言い送っても好いでしょう。此の様な事は曖昧では可(い)けませんから、唐崎夫人から直々に聞いたと、有りの儘(まま)をお書きなさい。」
網「貴女のお名前を用いてでもーーー。」
唐「ハイ介意(かま)いませんとも。私は自分を欺く様な男に、少しも容赦は加えません。是から帰れば絶交状を送ります。」
網守子は、もっと、この様な何事にも通じて居る夫人に、聞きたいと思うことも有るけれど、其れほどの懇意でも無いのにと、遠慮して控えたが、夫人の方は少しも遠慮が無い。また何か思い出した様に、
「良く考えると、是は大変な深い企みかも知れません。江南が添子を貴女の所へ住み込ませたのも、最初から、貴女の財産の事などを聞き込み、此の様な目的を起こした為では無いでしょうか。」
そう言われて見ると、先頃初鳥夫人から受けた、数万円の無心を初め、色々と思い当たる気もせられる。けれど、網守子は其れと明(あか)ら様には云わない。
「夫人、夫人、ロンドンと言う所は其の様な恐ろしい所でしょうか。」
唐「其れは広い都ですから、善人も有れば悪人も有りますが、未婚の女に取っては、随分危険な事が多いのです。」
網守子は何だか自分の周囲へ、詐欺の網が張り廻らされてある様にも感じた。
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