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島の娘 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(十二) 理想画
最早梨英も、この上逗留する口実が無くなった。数えて見ると、すでに二十一日を経た。其の間、殆ど少しの間も網守子と離れなかった。
海に出ても山に入っても、常に一緒で、常に何事をか語り合った。好く話の尽きなかった事だ。尤も網守子は多く問い方で、梨英が答え方であった。梨英の答えの一々が、網守子には一種の教育であった。其の教育が当人の心を幸いにしたか、不幸にしたか、其れは分から無い。
梨英は当年二十二歳、画家とは言えど、学校を卒業した許(ばか)りで、未だ一枚も自分の画を売ったことは無い。従って前途の希望が甚(はなは)だ高く、常に、
「大発展を試みる。」
と称して居る。或時、
「大発展とは何の事。」
と網守子に聞かれて、
「自分の力の有る丈を世に示すのです。」
と答えた。
網守子は何と合点したか、唯だ、
「羨ましいわねえ。」
と言っただけで、鬱(ふさ)ぎ込んだ。
今日は此の島の船着きの辺に三脚架を据え、網守子を岩の上に立たせて、先日来幾度も修正した画を仕上げて居る。
漸(ようや)く終わって、
「もう宜しい。」
と云う声に応じ、網守子は降りて来て覗き込み、
「オヤ、毎(いつも)の私と違うのねえ。」
梨英「是は貴女を、昔の王様の姫君に見立てた、理想画です。」
網「でも何で私の顔と違うの?」
梨英「今迄のは貴女の写生、是は貴方の、大発展を遂げる年頃の顔を、想像したのです。」
網「では私でも此の様に立派に成れるのネ。」
梨英「若(も)し貴女が丁年に達しても、そうですね、今よりも五、六年の後に、この通りの顔に成らなかったなら、私は画家では無いのです。」
網守子は暫(しばら)く考えて淋しそうに、
「でも貴方が行って了(しま)えば、私が何の様に成ったか、知る人が有りませんわ。」
梨英は返事に困ったけれど、成るべく気を引き立てる様に、
「行って了っても手紙を寄こしますよ。」
網「手紙を?アア下さい、必(きっ)と下さいよ。」
と云い又考えて、
「でも貴方は、何で行って了うの?お止めなさいよ。何時までも此の島で私と一緒に、絵を書いたり舟を漕いだり、ね、其れが好いわ、不可(いけ)ないの?不可ないの?」
何と云う単純な心であろう。梨英は真面目に、
「其れは出来ません。」
とは云ったが、自分が此の島を去った後、此の少女の身が何の様に成り行くだろうと怪しみ、多分隣島か何処かの漁師の妻にでも成るのだろうと思うと、非常に惜(お)しい気がした。
網「だって私が独りに成りますわ。独りは厭よ。私し独り居るのは厭よ。」
梨「ナニ、今に貴女の身に大なる変化が来ますよ。」
網「変化とは?」
梨「誰か貴女の好きな人が来て、独りで置か無い事に成ります。」
網「私の好きな人は貴方ですわ。貴方が又来るの?」
梨英は余っぽど
「爾(そう)です。」
と答え度(た)かった。
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