巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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島の娘    (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

サー・ウォルター・ビサント作   黒岩涙香 訳  トシ 口語訳

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      (百二十) 貴方を責める為に

 世に絶対絶命と云うことがある。蛭田江南の今の場合が即ち其れである。自分の名誉、自分の職業の本とする画(え)も、詩も、小説も悉く作者から断られた自分が、明日から何を頼りに、身を立てて好いか分から無い。今まで自分の勢力と為(し)て居た雑誌も、原稿が絶えた為、発行を続けることが出来無い。何の方面から考えても、命の綱が離れたのである。

 此の様な中に、谷川弁護士から聞いた一万円の贈り物と云うのは、実に地獄に仏の思いで有るけれど、其れとても、手に取る迄は当てに成ることでは無い。彼は多少法律を学んだ丈け、此の様な事柄が、如何に間違いの多いかを知って居る。彼は今自分の身が、闇の巷の迷児である様に感じた。四方を見渡して何の光明も無く、自分の身の向かうべき方角が分から無い。流石工夫に富んだ男も、今ばかりは工夫が尽きた。

 此の様な所へ網守子が尋ねて来た。何の為だか知ら無いけれど、吉事とは思われない。彼の身を今の困難に推し落としたのが、此の網守子であるらしい。のみならず、面と向かって彼を詐欺の人と罵(ののし)ったのも網守子である。彼は一種の恐れに一時顔色を失う程であった。けれど間もなく取り直して、単に親しい人を迎える様に、

 「是は是は寒村嬢」
と云ったが、又身振りを尊厳にして、
 「先日、国民美術院で、無根の非難を私へ浴びせ成さった貴女が、此の画室を訪問なさるとは、意外です。」
と、宛(あたか)も腹立たしさが未だ胸の底に潜んで居る様に云った。

 彼は芝居の旨さに於いて決して妻添子に劣らない。
 網守子は余ほどの決心を以って来たと見え、顔も赤らみ、眼も異様に光って居る。
 「ハイ、貴方が詐欺の人で無ければ、決して責めには来ないのです。」

 江南は傲然として、
 「未だ其の様な事を仰る。私を責めにとは?」
 網「貴方は私と婚約の出来た様に、世間へ言い触らして居るでは有りませんか。其れを私は咎めに来たのです。以後再び其の様な偽りを云わない様に、キッと貴方を責める為めに。」

 実に此の言葉は、男でも、容易に吐くことは出来ないほどの鋭さである。此の様に口を切った応接が、平和に終わろうとは思われない。
 江南「其れは私の思いも寄らない言い掛かりです。」
 網「イイエ、是には唐崎夫人と云う証人が有ります。夫人は貴方に騙(だま)されて、私の許へ祝辞を述べに来られました。」
 江「其れは何かの間違いです。私は貴女に分かれて後、彼の夫人に逢いません。」

 網「ハイ、私に分かれて後で無く、其の前です。貴方は縁談を申し込みもしないうちに、夫人に対して、内々だけれどと云って、婚約の出来た様に言いました。」
 抜け道の無い此の言葉に、江南は悸(ぎょ)と閊(つか)えた。





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