simanomusume136
島の娘2 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(百三十六) 愈々明後日
谷川弁護士は自分の職務以外の事には、余り心を費やさない人である。此の江南の手紙にしても、若し疑えば疑うべき点が幾らも有ろうけれど、殆ど読み流す様にして、
「ハハア、彼奴が今まで網守子に接近したのは、網守子を目的とするでは無く、余所ながら妻の顔を見度い為だった。」
と独語し、
更に又、
「彼は実に仕合せだ。明後日は彼に鰐革の嚢を引き渡すが、如何に踏み倒しても、五十万以上の値打ちが有る。独身の今までとは違い、妻が出来れば、二人分嬉しい筈だ。」
などと呟いた。
愈々(いよいよ)明後日は、彼江南に大財産の転がり込む日である。江南はそうとは知らない。凡そ一万円ぐらいの値打ちの物が、渡されるだらうと思うけれど、其れも手に取る迄はと、未だ幾分の不安を感じて居る。
此の二日の間、彼は新婦添子と共に、様々の会合に出席した。到る所で多くの人に取り囲まれ、祝辞やら質問やら、様々の言葉に接したが、彼は早や添子の指図を守り、含首(うなづき)役を練習して居る。成るべく言葉少なに、唯ニコニコと含首くのを返事に代えるのである。其の様子が如何にも新婚が嬉しくてしょうがない様に見えるので、或る人は云った、
「夫婦に成って三年も別々に居た同士が、不意に一緒に成れば、新婚よりも嬉しいで有ろうよ。」
と。
けれど此の夫婦は、成るべく添子が少しの間でも、初鳥未亡人と名乗って居た事を知って居る様な人を避けた。其れでも其の事を知って居る人も有り、中には意地悪く添子に向かい、
「貴方が未亡人と称したのも、矢張り無情な尊親族の遺言の為でしたか。」
と問うも有った。
添子は臆面も無く、
「そうですとも、ですから恨めしかったのです。でも財産には代えられませんのでねえ。」
と言って、宛も其の遺言を守った為に、大なる財産を譲り渡されたかの様に仄(ほの)めかして、疑う人々の口を容易に閉じた。
実に添子は劇場に於いてこそ、立派な女優とは成り得ることが出来なかったが、こうして世の中に立つと、巧妙無比の役者である。多分は今まで数年間の貧乏に煆(きた)えられた為で有ろう。添子の言葉は一々誠しやかで、大いに人の同情を引く。其の行いには、得も言われぬ品が有って、何人にも尊敬される。
僅かに二日の間だけれど、幾人懇意《親密》な友を作り得たかも知れ無い。是でもう、添子の面会日である土曜日には、新しい客が江南の画室へ溢れるほど集うて来る見込みが付いた。
この様な交際時間の外は、添子の身は様々の幽霊を捕らえる事に委ねられ、少しも暇の無い程に忙しかったが、何事も思う通りに運び、其の上に、思っても居なかった幸いまで転がり込む「明後日」が、愈々(いよいよ)来た。
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