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島の娘 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(百四十五) 梨英は何うした
肩を叩(たた)かれた江南は、驚いて振り向いたが、叩いた紳士は、先刻分かれたばかりの谷川弁護士である。
「ヤア谷川さん。」
と江南はなるべく平気で云ったけれど、極めて不安の調子であった。
谷「君は何だって、ワルシー市などへ行くのだ。」
江「ワルシー市?。ワルシー市?」
谷「そうさ。君はワルシーまでの切符を買ったぢゃ無いか。僕は今、君の背後から見て居たよ。」
悪い所で生憎の人に見られた。
ワルシー市は誰も知るウエールズの一都会で、可也に繁昌の港である。商人ならば兎も角も、都の紳士や芸術家が、今頃行き相な土地では無い。江南は更に口籠り、
「止むを得ない用事でーーーイヤ写生の為にーーー景色か何かを。」
谷川は機嫌好さそうに、
「成る程、彼所(あそこ)には古城の跡が有るな。けれど写生などの為では有るまい。大金持ちに成ったから、早や資本を卸す有利の事業でも捜しにか。其れとも別荘地の選定かな。」
と冷やかした。江南は之を機会(しほ)に、
「先づ其の様な事柄です。したが貴方は。」
谷「僕は次の駅で下車するよ。」
と言い、やがて一緒に乗ったが、果たして次の停車場で降りた。
江南は何の為にワルシー市へ行くのであろう。暫(しばら)く読む人の想像に任せて置き、話は路田梨英の事に移る。
梨英は網守子に分かれて後、何が何でも今までの浅ましい生活を捨て、自分の名と自分の技倆とで、身を立てなけれ成らないと決心し、殆ど血眼の様で職業を求めて歩いた。けれど振り向いても呉れる人が無い。
彼の心では、次の美術展覧会へ自分の名で画を出せば、必ず世に出る道が開けると信じて居る。其れ迄の所、仮令(たと)え玩具の絵を書いてなりとも、身を支える道を作らなければと思い、様々に奔走した末、或る新聞紙に、地方の豪家で、室内の粧飾などを修復する為め、風景画の出来る画工を至急に雇いたいとの広告の在るのを見た。
彼は是を救いの神の様に思い、直ぐに手紙で申し込みはしたけれど、其の所へ行く費用さえも無い。この様な場合に金を作る手段は、殆ど極まって居る。彼は又幾日か奔走を続けて、古い質物を入れ替えなどして、漸くに旅費を作り、遥々と其の家へ尋ねて行った時は、早や他の画工が雇い入れられた後であった。
彼は進みも退きも出来ない。最早や自分の運が尽き果てたかと、殆ど泣きの涙で其の家を出たけれど、都に引き返す目途も立たない。その夜は安い宿屋に泊まり、一夜を考え明かしたが、こう成っては故郷へ頼って帰るより外は無い。彼の故郷は、江南が尋ねて行ったワルシー市から余り遠くは無い、筆捨(ペンブローク)の市外である。
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