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島の娘2 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(百五十一) 無事の分かれ
江南が結婚したと聞いた時の梨英の驚きは、全く譬(たと)え様の無い程であった。梨英の胸には、腹の底から剣でも押し上げて来た様に、非常に鋭い痛みを感じ、言葉を発することさえも出来なかった。
梨英は、確かに江南の新婦は、網守子であろうと思った。彼は曾て網守子の部屋で、江南の詩集を見た。其の表紙の裏に、恋人で無ければ書かない様な文句が書かれて有るのを見た。其れが為に彼は、網守子の部屋を飛び出した。其の後も彼の心は、唯其の事のみが気に掛かり、先頃網守子に手紙を送ったのも、何うか其の婚礼の成り立たない様にと祈る一心であった。
其れのみで無く、其の後の梨英の一挙一動は、総て網守子が根本の動機と成って居る。此の度故郷に帰ったのも、こうして再び上京するのも、総て網守子の為で有り、動機の為でも有り、来たる美術展覧会へ傑作を発表する決心も、網守子が無ければ起しはしない。
彼を様々に励ました言葉は、未だ耳の底に響いて居て、網守子に就いての一切の記憶と共に、彼の心の底に、唯一つの光明とは成って居る。
其の網守子を、人も有ろうに此の江南に奪われたので有ろうか。全くそうに違い無い。今江南は百万円の財産が出来たと云った。網守子を妻にしなければ、其の様な財産が出来る筈が無い。そうして其の妻は美術心に富んで居ると云った。網守子ほど美術心に富んだ婦人が他に有ろうとは思われない。梨英は全く世界が暗黒に成った様に感じた。
余り長く梨英が無言で居るので、江南は其の顔を覗き込み、
「君は何うかしたのか。」
梨英は殆ど腹痛の人の様である。
「イイヤ、何うもしない。もっと詳しく、君の結婚の話を聞かせて呉れ給え。結婚は何時したのだ。」
江「君は新聞紙を見ないのか。」
梨「久しく見ないよ。」
江「僕と添子との結婚披露は新聞紙にも出れば、人の噂にも上り、僕の知人が大概は知って居るのに。」
梨「エ、添子?添子?其れが君の新婦の本名か?」
江「爾(そ)うだよ。」
梨「幼い時からの。」
江「無論だよ。」
梨英は浮かび上がった様に、ホッと安心の息を洩らした。
是より更に江南は、様々に梨英を説いたけれど、今までの契約を復活させると云う、虫の好い目的は、遂に達することは出来なかった。其れでも彼は、都に帰り着いた上で、再び工夫を廻らせば、何うか成るだらうと高を括(くく)り、其の中に汽車が都に着いたので、
「近日君の宿を尋ねるから。」
との言葉を残して分かれ去った。
この様にして江南と梨英とが、再びロンドンに入ってから、両個(ふたり)の間に如何なる事柄が起こるであろう。此の儘(まま)で、事も無く終わろうとは思われない。
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