simanomusume159
島の娘2 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(百五十九)実は嬉しい
自分の画を
「買って呉れ、買って呉れ。」
と頼み歩いたことは有るが、「買い度い」と所望された事は、梨英に取って殆ど初めてである。彼は自ずから嘲笑(あざわら)って、「不思議、不思議」
と云ったけれど、実は嬉しい。
「では何の様な画でも、お望み通りに書きましょう。風景ですか、肖像ですか。」
谷「貴方の筆なら何方(どっち)でも宜しいですが、新たに書いて貰うほどの猶予も有りません。今既に出来て居るのを。」
梨「出来て居るのは一枚も有りません。」
谷川は四辺(あたり)を見廻し、壁に伏せた小さい額に目を留めて、
「彼(あ)れは。」
と言って立つと、梨英が少し慌てて、
「其れは貴重品です。売りません。」
と云う中に、谷川は早や引き起こして画面を見、
「オオ、是は全く蛭田江南の書く乙姫だ。私は先頃貴方の絵と江南のと別だと主張しましたけれど、殆ど取り消したくなりました。オヤオヤ是は網守嬢のーーーー。」
梨「ハイ、五年前に私の写した、網守子の肖像です。」
谷川は心に色々の思いが湧き出たけれど、自分で其れを押し伏せ、単に、
「成る程、其れでは売られないでしょうね。」
とのみ云って座に帰った。
「今出来て居るのが無ければ、下絵でも宜しい。只今直ぐに売って貰いましょう。」
梨「下絵は後々用いる為のものです。売る品では有りません。」
谷「でも指し当たって、用いる見込みの無いのも有りましょう。」
谷川は何でも今直ぐに先刻の鑑定料を返し度いのである。梨英は考えつつ、
「そうですね、此様(こん)なのが有りますけれど。」
と云い、筆捨(ペンブローク)の停車場で写した、乗り遅れの紳士の姿と、其れに並んで次の駅で写した其の横顔とを見せた。谷川は絵の巧拙を問う積りで無いけれど、一目見て感心し、
「成る程貴方は蛭田江南に劣らない手腕がある。」
梨英は笑って、
「此の紳士が私ほど絵を書くでしょうか。」
と云った。
谷「エ、此の紳士とは」
梨「其の下絵に写したモデルです。此のモデルは江南ですよ。」
谷川は見直して、
「成る程似て居るかも知れませんけれど。」
梨「私が書いて見せれば貴方にも分かります。」
と云い、直ぐに梨英は鉛筆を持って、下絵帖の次へ、一個の顔を書き、
「是は誰です。」
谷「ヤ、実に旨い、貴方の筆は宛(まる)で飛ぶように走りますね。成るほど是は江南だ。」
梨「此の顔へ偽せ髯を付ければ。」
と云い、又鉛筆を走らせて、見る間に偽髯を書き加えた。
谷川は益々驚き、
「成る程、成る程」
梨「是れは私が筆捨(ペンブローク)の駅で写したのです。後で江南が附け髯を外して汽車の中に居ましたから、此の絵を見せて遣りましたが、彼は似て居る事を打ち消しましたけれど、此の下絵を呉れと云いました。」
梨英は唯自分の画の知己を得た嬉しさに、何の思案も無く此の様な事を語るのである。
谷「此の下絵三枚を三百圓に売って下さい。」
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