simanomusume167
島の娘2 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(百六十七) 真人間に帰った
添子と江南との喜びは、猶(ま)だ続いて居る。けれど何時まで続くであろう。全く永久の喜びだろうか。其れは疑問だ。
世には、自分の足の下に、深い淵の在ることを知らずに踊って居る人も有る。添子と江南とは其の様な者では無いだろうか。
添「貴方、事業を営むと言って、何の様な事業を営みますか。」
此の問には少し返事に困った。案外江南は、正しい事業に掛けては考えの無い男である。
「何をと言って、其れは臨機応変さ。差し当たりは先ず、今の雑誌を盛大にし、先日和女(そなた)の言った通りに、此の家を以って美術界の中心とする様に歩を進めるのさ。」
添「爾(そう)です。差し当たりは先づ、他の事に手を出さない様に成さい。私は雑誌の費用や収入を色々と計算し、今迄の会計を検めましたが、貴方は金銭の取り扱いが目茶目茶ですよ。帳簿なども辻褄の合わない所ばかりです。其れでさえ今迄続いていたのですから、私が引き受けて整理すれば、発行部数の増した後は、一年二万円(現在の約二千万円)の利子は必ず揚がります。」
是も江南は嬉しい。爾(そう)すると併せて年五、六万円の収入に成るのだな。」
添「其の中に、又確実な事業でも見つかれば、八万円にも十万円にも増して行かれます。」
江「爾とも、爾とも、だから幾等にでも財産を増加させることが出来ると、私が最初に言ったではないか。」
添「其の様な収入が出来れば、私は定まった面会日の外に、毎月幾度かパーティーを開き、勢力の有る貴顕紳士を招待しますよ。今に御覧なさい。ロンドンの上流社会が、蛭田令夫人の夜会へ、先を争うて来る様に成りますから。」
と、殆ど止め度も無いほどに、想像を走らせた。
暫くして添子は、又も叫び、
「オオ嬉しい。貴方、本当に嬉しいでは有りませんか。私は今まで四年の間、何の様な苦労をしたでしょう。一々は貴方にも言いませんけれど、泣き明かさない夜とては無いほどでした。」
江「其れも是も、最(も)う過ぎ去ったから。サッパリ夢と忘れて、今から後の確実な幸福を味わえば好いのさ。」
添「本当にそうですよ。もう、過ぎ去った四年の艱難辛苦は一切夢と忘れましょう。」
此の様に言う添子の眼には、真実に涙が浮かんだ。喜び極まって泣くと言うのは此の事だろう。江南も非常に優しく、
「イヤ私も今迄三、四年の間は、全く和女を可哀想な女だと思って居た。其れから今度得た財産も、私は決して自分のみの為に嬉しいのでは無い。和女の為に喜んで居るのだ。」
此の瞬間のみは二人とも真人間に帰った様に見えた。やがて添子は涙を拭って、
「ですが貴方、其の大きな財産を何うして誰から受けましたか。其れを聞かせて下さいな。」
と問出した。
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