simanomusume175
島の娘2 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(百七十五) シタが貴方は?
「百万長者、百万長者」
と言って、我を忘れるほどに喜んだのは、ホンの束の間であった。其の百萬円の大身代(大財産)は、夙(と)くの昔に盗まれた後である。盗んだのは誰れ?、人も有ろうに自分の妻添子である。そうして其の盗んだ品(もの)は、今は到底、取り返す道の無い迄に、無くなって了(しま)った。凡そ人間の生涯に、此の様な情け無い、此の様な腹立たしい事が又と有るものでは無い。
江南は聞き終わって、扨(さ)ては百萬長者の富が、夢よりももっと果敢(はか)無く消えて、全く元の杢阿弥に成ったかと、何も彼も理解が出来た時、
「オー」
と長い叫び声を洩らした。其の声には、何と言ったら良いか分からない程の痛々しさが含まれて居た。彼は機械仕掛けの人形の様に立ち上がった。恐らく自分では、立ち上がるとも気が附かずに立ち上がったので有ろう。
彼の心は唯怒りに満ちて居る。怒りの外は何事も心に残る余地が無い。彼の眼は、火を発するかと思われる程に炎上して、光って居る。彼の身体は疳癖(かんぺき)《癇癪を起しやすい性格》の人の様に、手先までも震えて居る。彼は其の手を振り上げて、宛も添子を一打ちに打ち殺す様な剣幕で、身を引き伸ばして添子の頭の上に振り翳(かざ)した。
彼の口は、段々心に募り来る怒りの為に、もう声も出ない。云わば全身が怒(おこ)りに食われたのである。狂人と言えどもこうまでの怒りを発することは出来無い。
怒りの火の様なものである。燃え始めたものを止めずに置けば、段々燃え盛り、果ては全家族を、イヤ、全都市を焼き、其の道に横たわる物は、何者をも焼き尽くさなければ止まないのである。
彼は本当に添子を、唯だ一撃に叩き殺し相に見えた。
添子の方は、今まで殆どヒステリーの様に神経が昂(たか)ぶって居たけれど、今は云うだけを言い尽して、張り切った心が弛(ゆる)んだ。グッタリ鎮まり返り、逃げようとも身を動かそうともしない。殆どず素直な小羊の様である。彼女は今までとは別人かと思われる様な細い静かな力の無い声の調子で、
「アア何うか私を殺して下さい。殺して貴方の気が済むなら、私をお殺し成さるのが双方の為ですよ。私はもう此の世が厭に成りました。生きて居て、此の様な無慈悲な邪険な運命の手に弄(もてあそ)ばれるよりも、此の世を去った方が、何れほど安楽だかも知れません。
貴方の為を思って為(し)た事が、却(かえ)って貴方を亡ぼす様に成りました。貴方の手に打ち殺されるより外に、私にはもう前途が有りません。」
赤児(あかご)よりももっと弱弱しく見える。悔いた女の頭上へは、真逆(まさか)に振り上げた手も振り落とせなかったのか、彼は初めて言葉を発し、
「泥棒め!、泥棒め!」
添「ハイ私は泥棒です。シタが(ですが)貴方は?」
と言って、部屋の一方にある路田梨英の絵を指さした。
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