simanomusume178
島の娘2 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
since 2016.6.27
下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください
(百七十八) 夫婦の合名会社
夫婦の間に、此の様な気不味(きまず)いとも何とも言い様の無い衝突が有っては、此の上、夫婦の儘(まま)で同棲することが出来ないのは勿論である。けれど蛭田江南は、今添子と別れることは出来ない。此の家の事を、何も彼も添子が切って廻すことと為ったのみならず、江南の生命とも云うべき、幽霊の使い分けまで、総て添子の腕一つに在る。
今若し添子と別れては、江南は殆ど木から落ちた猿と同様であろう。
されば添子が、分かれようか、世間体だけ仲良く見せ掛けて、夫婦関係を続けて行こうかと問うた時、江南は返す言葉が出ない。彼の癖である様に、只ウンウンと呻(うな)った、爾(そう)して暫くして、
「今夜は、其の様な事など考えることは出来ない。」
と云い、間も無く、自分の部屋へ引っ込んで了(しま)った。
此の翌日である。添子は又も其の問題を持ち出した。
「ねえ貴方、もうお別れする以外は無いとは思いますけれど、別れては貴方もお困りでしょう。私も差し当たり、行く先も無く、旨い仕事も有りません。愈々別れるとなれば、芝居道へでも帰る道を開きますけれど、一旦蛭田江南の妻と披露した身が、直ぐに又離婚などと云うのも、世間体が面白く有りません。
其れで私の考えでは、貴方と私とで、此の家を美術会社と見做し、両人が株主で、美術の営業と云う方針を続けて行こうでは有りませんか。ここを夫婦のホームだと思うことは出来なくても、事務の為の会社だと思い、貴方も此の会社へ出勤して居る積り、私も其の様な積りで、双方重役同志の関係になれば、家も、イヤ会社も円満に行き、世間の人は相変わらず両人を仲の好い夫婦だと思い、二人の名誉を支えて行かれるでは有りませんか。」
夫婦の家庭を会社にして夫婦関係を重役関係に直して、引き続き世間を欺いて行くなどは、余り類の無い営業である。けれど江南は否とも云わない。
彼はまだ非常に不機嫌であるけれど、
「先ア、何か好い思案の浮かぶまで、当分の所、其の様にでもして置こうか。」
と不詳無精に答えた。実を云うと此の外に答え様が無いのである。
添子は是に力を得たらしく、
「爾(そ)うと極まれば、貴方は是から直ぐに谷川弁護士の所へ行き、贋(にせ)の紅宝石を、嬉しそうに引き取ってお出でなさい。爾して世間へ、百万円の身代が出来た様に見せ掛ければ、一時に此の家の、イヤ此の江南及び添子合名会社の信用が高く成り、世間の美術商人が何れ程貴重の品をまでも、安心して茲(ここ)へ委託する事に成りますことか。」
成るほど名案では有る。けれど江南は、贋と知りながら彼の紅宝石を引き取る様な勇気は出ない。
「イヤ、爾(そう)は行かない。」
と彼は答えた。
a:360 t:1 y:0