simanomusume198
島の娘2 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(百九十八) 谷川は眉を顰(ひそ)めて
入って来た警吏は、宛(あたか)も何方(どっち)が何方であるかと迷う様に、梨英と竹里とを見比べて居たが、竹里の方が幾らか梨英よりも人相の悪い所でも有ったのか、頓(やが)て竹里の前に立って、
「路田梨英と云うのは貴方ですか。」
竹里は呆れた様に警吏の顔を見て、
「違いますよ。」
そうと見て梨英は直ぐに、
「私が路田梨英です。」
とて警吏の前に出た。警吏は何気無い言葉で、
「少しお尋ねしたい事が有りますので、警察まで御同道を願い度い。」
梨英は全く当惑に感じた。時も有ろうに、様々な用事を控えて居る今の場合に、
「今は甚(はなは)だ困りますが。ここで御用の次第を。」
警吏は少し厳かに、
「そうは行きません。」
梨「でも私は、色々急ぎの用事を控えて居まして。」
警吏は是でも合点が行かないかと云うように、圧迫する調子と為り、
「私は故々(わざわざ)筆捨市から出張しました。」
梨「何所から出張成さっても、今はお断りです。其れともーーー。」
警「其れともーーー。」
梨「其れとも逮捕でもせられるなら、止むを得ませんけれど。」
警「では逮捕します。私は逮捕状を持って居ます。」
と言って何やら紙切れを示した。
驚いたのは捨部竹里である。彼は梨英の為に、警吏へ何事か言おうかと思ったけれど、余り火急の事である為め、何と言って好いか分からない。漸く心を鎮め得た頃、早や梨英は引き立てられて、階段を下りつつある。
「路田君、路田君、何か僕へ言い置く事は無いか。」
と言いながら後を追った。
梨英は振り向きもしない。漸く此の家の戸口まで出で、梨英が待っている馬車へ載せられる所へ追い付き、
「君、心配するな。」
梨英は、平気の顔で、
「何の心配することが有る者か。何かの間違いに決まって居るから、僕は直ぐに帰って来る。」
と言った。勿論、身に覚えの無い者は、恐れを抱きはしない。けれど果たして、直ぐに帰って来る事が出来るか否や。其れは疑問だ。
竹里は暫(しば)し茫然として居たが、漸く我に帰った様で、梨英の画室へ引き返し、画へは元の通りに白布を掛け、更に戸に錠を卸して置こうとしたけれど、鍵を梨英が持ったままに行ったのか、見当たらない。仕方無く又階下に降り、部屋番の女に幾らかの金を与えて、特別注意を頼んでここを出た。誠に持つべき者は友人である。
此の後は、何うしようかと彼は又考えたが、兎も角も谷川弁護士に相談する外は無いと、直ぐに谷川の事務所に行くと、谷川が居合わせたので、事の次第を詳しく話した。谷川は勿論意外の事なので、
「ハテな、其れは捨て置かれない。」
と眉を顰(ひそ)めた。
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