simanomusume208
島の娘2 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(二百八) 飛んだお狂人さん
網守子は江南の平気なーーー寧ろ幸福そうな様子を見て、一時に腹立たしく感じた。
其れで無くても、既に谷川との問答に腹を立てて茲(ここ)へ来たのである。未だ其の心が良くは治まって居ない。
まこと江南に白状させる為ならば、余ほど巧みに掛け引きをしなければ成らない。けれど網守子は、唯熱心が有るのみで、駆け引きも何も無い。直ぐに罵(ののし)る語調で江南に向かい、
「貴方は重い罪を犯しながら、良く平気な顔で居られますねえ。」
と叫んだ。
是が嘘も飾りも無い網守子の真心である。罪を犯さない梨英は、無実の疑いを受けて、牢の中に呻吟(しんぎん)《非常に苦しみうなること》して居るのに、本当の犯罪人は、此の通り幸福な状(さま)で居て、己の罪を梨英に塗り付け、少しも気の毒とも思わず、又自分の心を咎めもしないかと思うと、全く悔しさが先に立って、其の他の事を考える余地が無い。
江南は此の剣幕に愕(びっく)りした。けれど其の驚きは、出し抜けに大きな物音聞いた様な驚きで、自分の罪を恐れる驚きでは無い。添子も同じく驚いたが、此の方は初めて網守子に来られた時の恐れが、未だ充分には鎮まって居ないので、不安の思いが顔に浮かび、壁に掛けた大斧の方を見て、返す眼で江南の顔と見比べた。
間も無く江南は果たして嘲笑(あざわら)う調子と為り、
「オオ、珍客かと思ったら、飛んだお狂人さんであった。険呑(けんのん)、険呑、でも看護人だけは附いて居ますね。」
と言って小笛を見た、小笛も悔しそうに身を震わせたけれど、何も言わない。
網守子は椅子から飛び立って、江南の前に身を引き延して立ち、
「私は狂人では有りません。貴方を裁判所へ引き出す為に来たのです。」
殆ど飛び掛かからんほどの剣幕である。江南は吾知らず一足、背後(うしろ)へ退いた。併し此の時の網守子の有様は、気違いと言われても仕方が無いほどに見える。
江「ハハ愈々(いよいよ)是は本物だ。」
と云って添子の方へ目を注ぐのは、共々に笑おうと、賛成を求める様にも見える。けれど添子は、尋常(ただごと)で無いと見て、益々驚きを深くし、目を見開いて両の手を握ったまま剛化(こわば)っている。
江南は又語を継ぎ、
「ハハハハ、私を裁判所へと言うのですか。」
網「爾(そう)ですとも、貴方はワルシー市と筆捨市とで、戸籍原簿を切り取ったでは有りませんか。」
此の言葉には、江南の笑いの声が止まった。如何に悪人で、如何に白ばくれて居ても、此の様に星を指されては、好い心持はしないと見える。
添子の方は扨(さ)ては紅宝石(ルビー)の件では無いのだと思い、何か網守子の思い違いらしいと看て取り、聊(いささ)か心配が弛んだ様である。けれど江南は又語を転じ、
「オオお狂人さんかと思ったら、貴女は探偵の下働きでしたか。」
何と言う図々しい態度であろう。
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