simanomusume209
島の娘2 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(二百九) 立来たって和(やわら)かに
「探偵の下働き」とは実に、骨を刺す様な嘲(あざけ)りである。網守子は声を張り上げ、
「探偵の下働きでは有りません。私は路田梨英の為に貴方を攻めるのです。貴方の仕た事の為に、梨英が疑いを受けて牢に入りました。貴方は御自分の罪を白状せずに済みますか。罪の無い人を、御自分の身代わりにするのですか。」
梨英が捕らわれて居るとは、江南の初めて聞く所である。彼は聊(いささ)か驚きつつも、
「路田梨英の為にですか。貴方は大層御親切ですねえ。」
網「梨英は私の夫です。許嫁です。」
江南は又笑って、
「ハハ、牢へ入れば此の後は、もう前科者と云われますが。前科者の妻に探偵の下働きは、釣り合うかも知れません。」
彼は飽くまでも怒らせて、心の筋道を混乱させる積りと見える。大抵の争いには先に怒った方が、心が暗み、言葉の筋道も紊(みだ)れて、言い負ける者である。
先程から色々に怪しみつつ聞いて居た添子は、ここまで聞いて、確かに之は、網守子の思い違いであると信じた。自分の夫江南に、種々の不正の有ることは知って居るけれど、人の戸籍を何う斯(こ)うするなど云うことは、自分の知って居る範囲には無い。
凡そ江南の悪事で、薄々ながらも、自分の感附かない種類は無い筈であるから、立ち来たって、和かに網守子の肩に手を置き、
「嬢様、何か貴女のお思い違いでは有りませんか。証拠の無い事柄を余り強く仰るのは、お為に成らないと思いますが。」
網守子は断固として、
「イエ思い違いでは有りません。蛭田さんは先ごろ、谷川弁護士から、鰐革の嚢(ふくろ)に入れた紅宝石(ルビー)を引き渡すと言われました。紅宝石(ルビー)の一語には添子は悸(びく)りとした。あの紅宝石は古江田利八の第二女の孫が受け取る筈です。」
添子は早や薄い氷の上を歩む様な心地しつつも、
「爾(そう)です。爾です。」
網「所が蛭田さんは第二女の孫で無く、第三女の孫です。」
添子は此の秘密を今聞くのが初めてである。
「違います。違います。江南は第二女竹子の孫ですよ。ねえ貴方。」
と江南の顔を見た。江南は無言である。
網「イイエ、其の竹子は三女です。其れだから蛭田さんは自分が受け取って成らないのを、谷川弁護士の間違いを幸いに、受け取ると言う欲心を起こし、本当の第二女梅子と言う者の戸籍を消して了(しま)う気に成りました。其れが為に窃(ひそ)かにワルシー市へ行き、ワルシー市から筆捨市へ廻り、双方の登記所で戸籍の原簿を切り取りました。爾(そう)して知らぬ顔で帰って来ました。」
成るほど、あの江南が、地方へ怪しい旅行をしたと添子は思い出した。日頃から少しも自分の夫を信じないだけに、思い出すと同時にハッと思った。
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