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島の娘2 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(二百二十五) 直に売って下さい
愈々(いよいよ)紅宝石(ルビー)を売り払う時が来た。イヤ売り払う時では無い。本当の紅宝石では無く、全くの贋物が何うして売り払うことが出来よう。実は売り払らおうとして、失敗する時が来たのである。本当の紅宝石は、既に添子に盗まれて、売り払われた後である。
即ち紅宝石が贋物と分かる時が来たのである。実に大変な時では有るまいか。網守子は、爾(そ)うと知る筈が無いから、真に紅宝石を売る時が来た様に思って、聊(いささか)か喜んだ。
実を言うと、網守子は先刻新聞紙の記事を見た時から、心に何とも言えない、苦痛を感じて居た。
其れは自分が、昨夜添子と結んだ沈黙の約束である。あの約束を結ぶ時には、唯梨英を助けたい一心で、其の約束から、何の様な不都合が生ずるかを、知らなかった。けれど今朝、新聞紙の記事を見た時に、既にあの約束の不都合な事を思い当たった。
あの約束さえ無ければ、此の犯罪は路田梨英で無く、蛭田江南であると、明らかに叫ぶことも出来るのに、唯沈黙の約束の為に、其れが出来ず、扨(さ)ては自分は、大いなる過ちを犯したのかも知れないとも思った。
其れでもあの約束の為に、二枚の原紙を得て、自然と梨英の身の潔白が分かる様な道の開けた事を思えば、イヤイヤ止むを得ない約束で有ったと思い直し、更に茲(ここ)へ来て、梨英の保釈が許(お)りたと聞くに及び、愈々原紙の力で有ると知り、幾分か心が軽くなった。
若し此の上に、江南を誠の犯人として其の筋へ突き出すことが出来たなら、言い分は無いけれど、最早約束をした後だから仕方が無いと諦めた。
此の様な心で居る所へ、宝石商人の名刺が取次がれた。谷川は説明する様に、其の名刺を網守子に示した。
「先日お指図に従い、何時でも紅宝石を売ることの出来る様に仕て置く為め、既に宝石商へ掛け合って置きましたが、今日は其の宝石商が、愈々相談を取決める為に、同業一人を連れて来たのです。何う致しましょうか。」
何うも斯(こ)うも無い。是を売って、其の上で結婚すると言うことに、梨英と相談が決まって居る故、売るだけだと網守子は思い、早や心の中に、梨英が、全く晴天白日の人と為ることをも思い浮かべ、蜜月の旅に上る幸福を画いた。
「では直ぐに売って下さい。」
谷「でも其の時とは事情が違います。其の時は路田梨英が捕縛せられるなどとは思いも寄らず・・・。」
網「でも既に保釈せられましたから。」
谷「保釈はせられても、真に放免せられる迄は、当人の身に重大な関係の有る品ーーー。」
網「放免せられるに決まって居ます。兎に角も、売り渡しの道だけは開いて置いて下さい。」
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