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島の娘2 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(二百三十七) 実は旅行では無く
谷川弁護士は、余り悟りが遅いのではないだろうか。如何に平生から、証拠の無いことは、何事も断定しないのが癖であるとは言え、此の様な場合に至り、惑ってばかり居るとは、殆ど痴鈍で有る。
イヤそうでは無い。彼は七十五万円を弁償しなければ成らないと云う、意外な重荷に心を圧迫せられて了(しま)った。何事を考えるにつけても、此の弁済を何うすれば好いかとの心配が先に立ち、其の他の事は、常ほどは考えられないのである。
其れでも様々に考えて様々の事をした。第一、網守子の行く先が分かると同時に、種々の手紙を認(したた)め、網守子が銀行から紅宝石(ルビー)を取り出した時の事情を、詳しく知らせて呉れと頼み送った。其の次には、蛭田江南が、紅宝石を辞退した事に就いて、色々と考え廻した。
果たして江南は、紅宝石を贋物と知って辞したので有ろうか。知って辞したとすれば、彼は驚く可き悪人であるけれど、彼が其れを知って居る筈が無い。彼は私から知らせる迄は、此の様な紅宝石の在ることさえ、知らなかった。其れを贋であるの本物であるのと何で知る者か。
其れでも何だか腑に落ちない所が有る為め、頓(やが)て自ずから江南の許へ尋ねて行った。妻添子が出迎えて、
「江南は今朝旅行しまして、帰りの程も良く分りません。」
と答えた。
実は旅行で無く逃げたのである。谷川は残念に思うけれど、若しや添子に問えば幾分か得る所でも有るかと思い、
「貴女は若しや江南から、何か紅宝石の話を聞いた事は、有りませんか。」
添子は、大凡の事情を悟り、欺(だま)せるだけ欺(だま)す積りで、誠しやかに、
「先達って彼は、少しの血筋の違いで、紅宝石を受け取ることが出来ないのは、残念だなどと云って居ました。」
谷「オオ彼は残念がって居ましたか。」
果たして彼が残念に思ったとすれば、彼は贋物と知らなかった筈であると谷川は思った。
其れでも更に谷川は問うた。
「其の紅宝石が、誰の物だと云う様な事は、云いませんでしたか。」
添「誰の物とは聞きませんが、何だか貴方の世話だと云う様に云いました。」
谷「そうです。私の世話ですが、貴女も兼ねて幾分かは、聞き知って居る筈です。」
添子は仮忘(とぼ)けて、
「エ、私が」
谷「そうです。貴女は何時か網守子から、紅宝石の話を聞いた事は有りませんか。」
添「網守子に? 有りますよ。古い織物だの、金銀の細工物だの、古い宝石類だのと、沢山持って居ることを聞きました。」
谷「イヤ特別に紅宝石の事を。」
添「ハイ、特別に紅宝石の事を聞かされたかも知れませんが、此方(こっち)が特別には覚えて居ないのです。」
と何気無く答えた。
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