simanomusume38
島の娘 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(三十八) 天才の筆でしょうか
貧民窟の一語を、何気なく聞く網守子の胸の中には、耐え難いほどの或る感じが有った。彼女は少しの間、言葉を発する事が出来なかった。若し発したならば、声が震えて竹里に怪しまれるであろう。
漸(ようや)くに、
「竹里さん、路田梨英は絵を書きますか。」
竹「彼は専門に絵画を修行し、天才の自信を持って居ましたので、無論、絵を書く筈で有りますが、私は殆ど彼の絵を見たことが有りません。彼は画家の社会から消えてしまったと言うよりも、寧ろ、一度も画家の社会に現れずに終わりました。」
網「終ったのでは無いでしょう。是から現れるのではないでしょうか。」
網守子はこれ程までに信じて居る。
竹「イヤ人の身の上ばかりは、何とも断言出来ませんが、私は切には彼が世に現れることを希望します。」
希望はするけれど、甚(はなは)だ難しい事であろうとの意味が、言葉の底に隠れて居る。
網守子は手文庫の中から、幾枚かの下絵を出して来て、
「竹里さん、是は天才の筆でしょうか。」
と言って示した。竹里は一々に目を通して、怪しそうに眉を顰(ひそ)め、
「作者は誰です。」
網「貴方に分かりませんか」
竹「サア、先ず分から無い方です。」
網「場所は」
竹里は更に塾々(つくづく)と見て、
「アア、紫瑠璃群島の景色です。成るほど是は寒村島、実に筆勢が活きて居る。是ならば天才の筆と言っても、誰も否定することは出来ないでしょう。」
網「是は梨英の書いたのです。」
竹里は怪しそうに見入って、
「ハハア、是が梨英ですか。此の様な筆を以て、世に埋もれる筈は無い、本当に梨英の筆なのでしょうか。」
網「彼は貴方の去った後、私の家に二十日も逗留し、毎日群島の諸所を写生しました。其の中の幾枚かを私に呉れたのが是です。」
竹「其れでは無論、間違いは無い、この様な筆を持っていて、アア実に惜しい。」
是から話は様々な事に移り、竹里は自分で、総ての芸術の批評に関係して居ることや、又都に於いて、学生時代の親友が、学校を出て間も無く互いに相忘れ、別々の生活を送る様などを話し、最後には又古美術の話に復(かえ)り、
「谷川弁護士に聞きますと、貴女の家には余程の珍品が伝わって居るとの事ですが、古美術品を、彼(あ)の様な孤島に置くのは惜しい者です。私なども是非拝見したい。其れを都に取り寄せて、美術室でもお作り成さっては何うです。芸術家が、何れほど喜ぶかも知れません。」
網「イイエ、見度い人は、島へ来るのが好いのです。来れば幾等でもお目に掛けます」
などと言う談話まで交換せられ、双方ともに全く旧情を温め、凡そ二時間も経て、竹里は梨英の居所を書き記して分かれ去った。
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