巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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島の娘    (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

サー・ウォルター・ビサント作   黒岩涙香 訳  トシ 口語訳

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     (五十七) 此の死骸が生まれ更(かわ)ります

 梨英が、何故急に腹立たしい顔と為り、鋭い声を発するかは、網守子は気も付かない。
 「ハイ其の人に逢いました。逢って見ると、全く貴方と違うでは有りませんか。私は、意外やら残念やら、何うすれば好いだろうかと思いましたが、其れでも其の人は、三重の大天才と言われ、多くの人に尊敬せられて居ますので、私も天才ならば尊敬しなければ成らないと思い、何にしても其の様な大天才に逢ったのは、仕合せで有ると思い直しました。
 幸い其の席へ捨部竹里が来合わせた者ですから、私は直ぐに竹里に貴方の事を尋ねたのです。」

 梨英はここまで聞いて、跳ね起きる様に突然立ち上がった。
 「網守子、網守子、貴女の知る路田梨英は、恥辱の為に死んで了(しま)いました。ここに居る此の梨英は彼の死骸です。此の死骸は是から更に生まれ更わります。生まれ替わって何の様な人になるか、見て下さい。」

 網守子は全く路田梨英の心に、昔の清い高い、強い精神が返り来たことを知った。嬉しさに我慢がならず縋(すが)り付き、
 「オオ、本当に生まれ替わって下さるか。梨英、梨英、生まれ替わって下さい。貴方の高い高い天才を輝かす様にして下さい。」

 梨英は無言のまま、網守子を払い退ける、仰向(あおむ)いて部屋の中を其方(そっち)此方(こっち)と歩み始めた。
 其の踏〆める歩調も、今迄の様なオドオドした足路(あしぶみ)では無い。俯仰天地に恥じぬ《自分には少しもやましいところが無い》人が、此の後の身の振り方を考えながら歩んで居ることは、見受けられる。折角この様な心に返った者を、邪魔をしてはと思い、網守子は静かに此方に控えて居た。

 梨英はやがて炉の前に立ったが、彼の眼は其の棚にある「江南詩集」に、注ぐとも無く注いだ。開いてある表紙裏の文字が眼に写った。其の筆跡は今初めて見るのものでは無い。
 「謹んで寒村網守子嬢に呈す、著者蛭田江南より、親しき交わりが、弥(いや)が上にも嬉しい実を結ばんことを願いて」

 此の文句は梨英の眼に火の様に見えた。
 彼は網守子に背を向けて立ったまま、其の身体が石に成ったかと疑われる。勿論網守子は、此の詩集を先刻添子が、ここに置いた事も覚えて居ない。其の文句などは念頭に無い、やがて梨英は衣嚢(かくし)から紙切れを取り出した。是は此の家へ来る前に、蛭田江南から与えられた一千円(現在の約百万円)の銀行小切手である。

 彼は無言で此の小切手をメリメリと縦に破り、又重ねて横に破り、無言のままで火の中へ投げ込み、静かに網守子の傍に返って来た。彼の顔は土の様に青い。彼は確かに大いなる決心を起こしのである。彼の心は深い深い感情に沸き返っている。けれど彼は強いて其れを制した様な、静かな、しかも微かに震える声で、

 「今夜は全く路田梨英の新紀元です。」
と言った。


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