simanomusume64
島の娘 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(六十四) 江南の創作です
網守子は蛭田江南の詩を見たけれど、未だ彼の画を見た事は無い。今、藤子から江南の書いた額が有ると言われ、立ち上がって自分の座って居た背後の壁を見上げた。ここには二枚の額が掛かって居た。二枚とも同じく江南の名を署して有る。網守子は見るよりも、
「オヤ、是は!」
と言ったたまま後の語を発しない。
藤「誰でも此の絵を見る人は驚きますよ。全く天才の筆では有りませんか。私の様な素人でさえ、毎日見て居ても飽きません。時々、何うしてこうも美しく書けるかと、見惚れる事が有りますよ。特に貴女は、余程絵の稽古を成さったと谷川弁護士に聞きました。私などより一層此の画の妙が分かりましょう。」
網「是は複写でしょうね。」
藤「イイエ、他人の絵を複写したのでは無く、蛭田江南の創作です。」
是が果たして蛭田江南の自分の筆であろうか。二枚ともに、景色を紫瑠璃群島に取った者で、江南の特徴と言われる海の絵であるが、中に居る人物は、網守子自らをモデルとした者である。網守子の目には、路田梨英の筆としか思われない。磯の態(さま)や、波の動きが、全く潮風を吹き起こすかと疑われる。
のみならず、此の景に良く似た下絵が、今網守子の文庫の中にもある。其の上に梨英が此の画の素描(スケッチ)を作った時の事さえ網守子は覚えている。若し梨英より他の人が、此の絵を書いたとならば、必ず梨英に手本を借りたのであろう。イヤ借りたのみでは無い、筆の行き方が梨英の得意の筆法である。絵を書くことに多少の苦労を積んだ今の網守子には、殆ど争う余地の無いほどに感ぜられる。
余りの不思議に網守子は、
「実に良く出来て居ます。」
と言ったまま席に復した。
藤子は説明して、
「一枚は江南が初めて展覧会に出したもの、一枚は二枚目の展覧会に出したものです。私の父が、此の家の先祖が出た、コーンウォ-ルの海岸に良く似ているからと言い、買受ました。実を言うと、父は私を江南の妻にしたいと言う気があったのですよ。それで此の額を二枚とも私の部屋へ掛けさせて、其のまま今までここに在るのです。」
網守子は殆ど目眩(めま)いがするほどに感ずる。成るべくは独りで静かに考えて見たい。けれど問うた。蛭田江南は誰の弟子です。何処で絵の修行をしたのでしょう。」
藤「其れが不思議ですよ。彼は別に修行と言うほどは画の修行をしないのです。学校では法学を修め、卒業も好成績では無かったのですが、弁護士に成る為に、谷川弁護士に従って居たのです。其れが突然転業しました。」
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