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島の娘 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(六十六) 梨英を救はねば
網守子は直ぐ我が家に帰り、深く深く考え込んだ。実に是ほど不思議な事は無い。蛭田江南の絵が、何うして彼(あ)れほど、路田梨英の絵に似て居るのであろう。
似て居るのでは無い。全く梨英の書いた絵である。他の人なら疑っても、決し難(かね)るかもしれないけれど、自分の姿をまで絵の中に書き込まれてある。
網守子には最早や、塵(ちり)程の疑いも残ら無い様に思われる。蛭田江南は確かに絵盗人か賊である。他人の絵を奪い、其れに自分の名を書き入れ、自分の絵として世間に示し、他人の名誉を自分の名誉として居るのである。
けれど是は蛭田江南自身の、一人だけの考えでは出来ないことである。真の作者である路田梨英が同意しなければ、行われる筈が無い。
梨英が、果たして此の様な事を、同意したので有ろうか。イヤ同意したに決まって居る。同意したからこそ彼の絵が、江南の画として通用して居るのである。彼は何故に、此の様な不名誉な事柄に同意したのであろう。サア分から無い。ここに至ると網守子の心には、何の手掛かりも思い浮かば無い。
彼は五年前には、自分の技を研き、自分の名を揚げることを唯一つの目的として居たのに、今は自分の名を隠し、他人の名の下に隠れるとは、何と言う不思議な事であろう。
網守子は、更に今度再会して以来の、梨英の様子から、梨英の言葉などを考えて見た。
彼は若し、自分の画に自分の名をさえ署して置けば、今頃は彼自らがターナー以来の第一の天才画家として、殆ど飛ぶ鳥を落とすほどの勢いと成って居る筈である。其れが自分の作品を人に与え、自分の天才、名誉、人格をまで人に奪われ、其の身は自分で鼠の巣と称する、見すぼらしい画室に棲み、世の人と交わることさえ出来無い境遇に沈んで居る。決して本心から此の様な逆境に甘んずる筈は無い。そうすると、彼の身には何か蛭田江南に、何にも彼も捧げなければならない様な、弱点が有るのだろうか。
彼の言葉から察すると、そうだ、彼は止むを得ずして、江南に此の様な圧迫を受けて居るらしい。彼が自分の身を嘲(あざけ)って止まないのは、もう江南に何も彼も奪われ尽くし、再び自分の身は、此の世に浮かび出る道が、絶えたと思うが為では無いだろうか。彼は自分の事を、世を欺く詐欺漢だとさえも言った。
其の時には、唯自分の貧乏に絶望し、自分の身に愛想を尽かしたが為に、言ったのだと思ったけれど、今思えば深い意味が有るらしい。是れは何しても、彼を救わなければ成らないと、網守子が思い定める折しも、初鳥添子が入って来て、
「蛭田江南が、貴女をお尋ねしたいとの電話です。」
と告げた。
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