巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

simanomusume69

島の娘    (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

サー・ウォルター・ビサント作   黒岩涙香 訳  トシ 口語訳

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       (六十九) 之れも鼠の巣

 網守子が、小笛と共に家を出たのは、午後の四時であった。けれど夜に入るまで帰って来なかった。
 「仕様の無いお転婆だよ。何処へ行ったのだろう。」
と添子は独り呟(つぶや)いた。

 両女(二人)は、打ち解けた姉妹の様に、手を引き合わせて歩み、歩みつつ絶えず互いに話し、間も無く梨英の居る「鼠の巣」に着いたが、梨英が朝から留守であると分かった。のみならず何時頃帰って来ると言うことも、家主には分から無い。

 網守子は、一方ならず張り合いが抜けた様な気がしたが、真逆(まさか)に留守の家へ据(すわ)り込んで待つ訳には行か無いから、明日又出直して来る積りでここを去った。

 先ほど小笛は、頻りに自分の兄阿一が、戯曲に失敗した事を語り、兄の病気も、其の失望の為に出た次第を告げて居たので、ここに至り網守子は、一方ならぬ同情の念に駆られ、
 「では是から貴女の宿に行き、私が貴女の兄さんを慰めて揚げましょう。」
と言った。

 小笛「貴女に此の様な事までお願いしては済みませんけれど、兄は唯だ私と差し向かいで、誰からも親切な言葉を聴かず、失敗した脚本を、恨めし相に眺めてばかり居ますから、此のまま置いては、発狂でもしはしないかと、気遣われます。」

 網「私が慰めたからと言って、何の甲斐も無いかも知れませんけれど、其の脚本を見せて貰えば、又何の様な思案が浮かばない者でも無いと思います。」

 小笛「イイエ、貴女は芸術家の心持が、良くお分かりですから、貴女が何とか仰って下されば、たとえ可(い)けない者として、断念(諦)めるにしても、思い切りが好いだろうと思います。」
 網「ナニ。可(い)け無い者などと、其の様な筈は無いだろうと思います。貴女の兄さんは二年の間、全力を其の戯曲へ注いで居たと言うでは有りませんか。」

 小笛「そうです。世の中に、兄の作ほど力の籠(こ)もっている脚本は、無いだろうと思います。兄は寝ても覚めても、其の脚本の創意工夫ばかりに執着して、二年間に何回書き直したかも知れず、全くの其の脚本が、自分の子か、自分の命かの様に思って居ります。其れを批評家から、全くの拙作で、世に示す値打ちの無い様に宣告されましたから、失望するのが当然だと思います。」

 網「けれど其れほど力を込めた作品が、失敗である筈は無いでしょう。」
 語らう中に柳本兄妹の宿に着き、見すぼらしさに於いて、「鼠の巣」と競争すべき其の部屋に、網守子は歩み入った。

 此の時もまだ、柳本阿一は戯曲の原稿を睨み詰めたまま、青い顔をして呻(うな)って居たが、小笛から網守子が来たと聞き、
 「立派な批評家に、失敗と宣告せられた者を、誰が見ても仕方が無い。」
と恨めしそうな言葉を洩らした。


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