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島の娘 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(七十五) 逆立つ柳眉(りゅうび)
昨日も、今日も、何故に梨英は家に居ないのであろう。聊(いささ)か心配にも思われるけれど、居ない者は仕方が無いので、又明日でも尋ねようと思って、網守子は家に帰った。
夜に入って彼の小笛嬢の詩集帖を取り出し、先ず最も新しい終わりの一頁を読み始めると、付き添い婦人初鳥添子が入って来て、
「網守子さん、貴女へ差し上げる物が有りますよ。」
と言って、先ほど蛭田江南の所から持って来た、江南自筆の原稿を差し出した。網守子は驚くべきほど冷淡である。
「何ですか其の紙切れは。」
添子は例に由って舞台の上の身振りである。
「紙切れとは情け無い。貴女はバイロン卿の自筆の原稿が、一行でも二行でも大金に売買せられることを、御存知ありませんか。」
と江南の言葉をそのまま受け売った。
網「エ、其れがバイロン卿の自筆ですか。」
添「そうです。バイロン卿の詩の原稿です。」
網「其れを私は紙切れなどと云って、済みませんでした。どれ、見せて下さい。」
添「バイロン卿はバイロン卿でも、昔のバイロン卿では無く、其れにも劣らぬ、今のバイロン卿、蛭田江南の自筆です。次号の雑誌へ載せるべき詩の原稿で、是から印刷所へ送ると言うのを、私が貰って参りました。」
網「私は蛭田江南を、バイロン卿だとは思いません。」
添「アレ、貴女は人の親切を、其の様に蹴做(けな)す者では有りません。故々(わざわざ)私が、貴女に上げ度いと思い、彼の机の上に在るのを、貰って来ましたのに。」
成るほど、人の親切を無にするのは、善くないことで有ると思い直し、受け取って其の詩の句に目を通したが、忽ち網守子の顔は腹立たしそうに、其の柳眉が逆立った。
無理も無い、此の詩は今読んだ小笛の詩の句と同じ事である。
「是が江南の詩ですか。」
人の顔色を読むのに長けた添子は、何事かと怪しみ、
「何か此の詩に、異様な所でも有りますか。」
と言い、自ら原稿を手に取って読み直したが、唯だ優しい麗しい思想文句が、中を流れて居るばかりで、何も咎めるべき所は無いので、再び網守子の前に置き、
「貴女は今の様な顔を成さると、若しご亭主でもあれば、ご亭主が驚きますよ。」
網「オヤ、私は其の様な恐(こわ)い顔をしましたか。」
と言って、努めて面を柔(やわら)げた。
添「此の様に美しいお顔だのに、思うことが直ぐに現れる様に見えるのは、勉めて直さればいけけませんよ。」
網守子の心には様々の思いが満ちた。何よりも先ず江南の詩と小笛嬢の詩とを比べて見たい。幸いに二人の詩稿が自分の手許に在る。少しして添子に向かい、
「今夜、私は用事が有りますから、此の部屋へ来ない様にして下さい。」
と言って添子を退け、先に贈られた江南詩集の一冊を探し出して、之を小笛の詩稿帖と比べ始めた。
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