simanomusume76
島の娘 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(七十六) 三人を救はねば
江南詩集と小笛の詩稿帖と、不思議も不思議、一字一句違って居ない。句読点一個まで同じ事で、詩の配列せられてある順序も同一である。
網守子は読むに従い、詩の面白さに引き入れられる様な気がする。又比べるに従って、異様な疑いに責められる。何所かに少しでも双方の違った所は無いだろうかと、其れを見出し度いと思ったけれど、見い出すことが出来ない。
異(違っ)た所は少しも無い。
けれど網守子の手許に在るのは、江南詩集の末の巻一冊である。最初の巻一冊は添子夫人が、客室の間のテーブルの上に置いてある。網守子は其れを思い出し、静かに客室へ下った。此の時はもう夜も更けて、家中が寝鎮まり、唯閴(しん)として居る。
けれど其の実、未だ寝鎮まらない一人が有った。其れは添子である。彼女は網守子の足音を聞き、窃(ひそ)かに覗いて見た。すると網守子が、客室に在る江南詩集の上巻一冊を取り、自分の居間へ帰って行く様子が見えた。
「オヤ、オヤ、」
と添子は呟(つぶや)いた。
網守子は上篇をも比べて見たが、一字一句の相違が無い。若しも網守子が、今の世の歴史家とか考証家とか言う様な、大学者ならば必ずここで、是は小笛嬢が蛭田江南の詩を愛する余りに、自分で写し取った者であると断定する所であろう。
けれど網守子は学者では無い。唯だ自分の直覚で判断し、江南が小笛の詩を盗んだのだと知って了(しま)った。
ここに江南の未だ発表していない次号の原稿の詩が、小笛の詩稿帖の終わりに出て居る。若し小笛が江南の詩を写した者ならば、未だ発表していない詩を、写し得る筈が無い。
愈々そうと判断して、更に読み直して見ると、何の詩も、何の詩も、悉く若い女の真情が溢れて、小笛の言葉であり、小笛の声であることが争われ無い。さては江南は画を盗むのみで無く、詩をも盗むのである。
今まで路田梨英のみを気の毒に思い。何うか救って遣り度いと思ったが、柳本小笛も、同じように気の毒である、同じように救って遣らなければ成らない。
是れのみでは無い。小笛の兄阿一の戯曲を批評したのも、矢張り小笛の原稿を買い入れて呉れる其の同じ人であると、阿一自らの口から聞いた。そうすると、江南は戯曲をも盗み取りに着手して居るのである。
こうと知る以上は、三人を救う為、何とか工夫を廻(めぐ)らさなければ成らないと、網守子は思い定めて寝室に退いた。
此の夜の明け方、誰一人目を覚まして居ない刻限を計り、ソッと此の室に忍び入ったのは添子である。彼女は江南の詩集と小笛の詩稿帖とが並んで居るのを見、同じく双方を読み比べた上、何と思ったか、又静かに自分の部屋へ退いた。
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