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島の娘 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(九十一) 嬉しいのか悲しいのか
「額の絵が君のか否」
と直接に問われて、もう何の逃げ道も無い。江南は此の場合に何と答えるであろう。
最初から絶えず江南の挙動に注意して居る網守子も、他の人々と共にここへ来た。今まで網守子は何事も知らない顔で居たけれど、流石女だけに、心の何処かに弱い所がある。此の様に路田梨英の絵が甲紳士と谷川弁護士との争いと為っては、事に由ると梨英の為に、不利益な結果と為り行くかも知れ無いと気遣った。
若しも江南が、口から出任せの返事をするのを、其のまま許して置けば、或いは梨英の名が葬られて了(しま)わないとも限ら無い。是は黙って居られ無い場合であると、自分から進み出て、
「イイエ、彼の絵は私の友人路田梨英が書いたのです。」
と、きっぱり言い切った。是で江南の返事する余地が無い。
彼は自分の返事すべき責任の無くなったのが、嬉しいのか悲しいのか、或いは自分の永年の偽りが、ここに暴露する時が来た者と思ったのか、キョロキョロと四辺(あたり)の人の顔を見廻すのみで、口には何の声も出無い。
此の返事を聞いて非常に驚いたのは、甲紳士である。
「エ、エ、彼の額の絵が、蛭田江南君の筆では無いのですか。」
網守子「ハイ、蛭田さんの筆では有りません。」
甲紳士「江南君の外に、彼の様な絵が書ける人が有りましょうか。」
網守子「ハイ、路田梨英と言う新進の画家です。」
甲紳士「其れは不思議だ、路田梨英、私は聞いたことも無い。若しや、何かの間違いでは。」
網守子「イイエ、五年前に、ここに居る捨部竹里さんと共に、路田梨英が紫瑠璃島へ参りました。私の目の前で此の下絵を作り、其れを直ぐに私が貰ったから、少しも間違いは有りません。」
甲紳士は全く赤面し、更に何か言いたそうに見えたが、捨部竹里が進み出て、
「全く其の通りですよ。諸君は未だ路田梨英と言う、新進画家の事を、御聞き及びが無いでしょうが、私の旧友で、此の絵は確かに彼の筆です。」
もう疑いを容(いれ)る余地が無い。甲紳士は唯だ、
「不思議」
と言うのみで、後は沈黙して了まった。
他の紳士や貴婦人は、絵の事に爾(さ)ほど詳しく無い為に、梨英の筆法と江南の筆法とが何れほど似て居るか、何れほど違って居るか、別に確信するほどの眼力も無く、深くは怪しみもせずに此の場は治まった。
是れより一同は食堂へ入って行くことと為ったが、蛭田江南は、網守子に向かい、
「今夜はお陰で、近年に無い面白い想いを致しました。私は他に約束が有りますので、是で御免を蒙ります。」
と何気無い口調で言い、食堂へは入らずに去った。
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