simanomusume97
島の娘 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(九十七) 能(よ)うく知って居ます
江南は暫(しば)し淀んだだけれど、彼は淀んだまま沈み込む男では無い。
直ぐに平気な様子に復(かえ)り、
「実は今日、生涯に二度と無い大事な用事で、貴女の御承諾を得に参りました。」
是だけの言葉に早や大体の目的が仄(ほの)めいて居る。今淀んだ後としては、驚くべき勇気である。
彼は確かに人を説き伏せる術を知っている。言わば頭から浴びせ掛けて、否応を言わせないのである。取り分けて彼は、「女」と言う者を、非常に安く踏み、自分から縁談を申し込めば、何の様な令嬢でも、転がり込む様に承諾すると思い、言い出し難い事を言い出すのでは無く、向こうの歓迎する事を、言うのだと信じて居る。是だけの自信が無ければ、彼の今迄の位置は、支えられない筈である。
網守子は怪しむ様に、
「其の様な大事な御用事を、ツイ昨今の私へ御相談とは、貴方も余り馴れ馴れし過ぎるでは有りませんか。」
全く其の通りである。実に世間に例の無いほど、馴れ馴れし過ぎて居る。
江南「イヤ立ったままでは、話も出来ません。先ず何うかお掛け下さい。」
とてベンチに腰を卸させ、自分は其の前に立ったまま、
「昨今と仰(おっしゃ)っても既に度々―ーー或時は殆ど毎日の様に御目に掛かり、世間の人も、貴女が私へお許し下さる親しみを、尋常とは思って居ません。最早や私も貴女を知り、貴女も充分に私を御存知で有りましょう。」
網守子は言葉に異様に力を込めて、
「ハイ、貴方の事を此の頃は、良うく知って居ます。」
良うく知って居ますとの一語には、深い深い意味があって、殆ど其の意味が、嘲(あざけ)りの様な語調で洩れた。今は島娘の網守子も、談話に於いて都の紳士と、負けず劣らずに、太刀打ちすることが出来る。
況(ま)して心の底で、今こそは心弱くては成ら無い場合だと、充分の覚悟を定めて居る。昨夜は側面から彼を攻めたけれど、今は事に由ると正面から攻撃しなければ成らない。
江南は、
「知って居ます。」
との言葉を、嘲(あざけ)りの意味とは取らず、却(かえ)って自分を励ます言葉の様に取り、
「第一に貴女と私は趣味が同じです。貴女の御贔屓下さる柳本兄妹は、兼ねて私も目に掛けて居りますし。」
網「ハイ、貴方が何の様に目をお掛け成されたかも、私は良うく知って居ます。」
江「御存知の如く、私は芸術界に於いては、同業者の先頭に立って、自分の口から申すは如何で有りますけれど、殆ど一代の芸風を導いて居りますし。」
網「貴方の様な芸術家を、私は見た事も聞いた事も有りません。」
江「イヤ、そうまでお褒め下さっては痛み入りますが、貴女も深く芸術をお愛し成さるし。」
網「イエ、私は贋(にせ)の芸術は愛しません。」
江「その点も全く私と同一です。今の世に贋作の多いのはお互いに同感です。」
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