simanomusume98
島の娘 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(九十八) 私へ縁談
頓(やが)て江南の言葉は、殆ど急転直下と云う程の、驚くべき速度を以て、目的の点に進んだ。
「私は此の通り、芸術に於いては、絵画にも、詩歌にも、文芸にも成功を得て居ますけれど、今一つ心の中に燃えて居る大目的が有りまして、其れで貴女に訴えるのです。」
網守子は、今まで如何に嘲(あざけ)っても、此の鉄面の男には、一つも嘲りが嘲りとしては通ぜず、却って悉く褒め言葉の様に取られて了(しま)うので、今度こそは、是でもかと言うほどに冷笑して、
「貴方の目的は、総て他人に訴えてお達し成さると見えますねえ。」
全く骨に砭(はり)《治療用の骨にする石の梁》する様な痛い言葉である。けれど江南は平気で、
「ハイ、是のみは、貴女に訴えて貴方の御承諾を得なければ、如何ともすることが出来ません。既に貴女は唯今も仰る通り、良く私を御存知で、貴女と私の間に、友人関係が出来て居ますけれど、私は最早や、友人関係だけに満足が出来ないことと為りました。」
網守子の顔は次第に曇って、今は初鳥添子が驚いた時の様に、柳の眉が逆立ち始めた。
「お待ち成さい。蛭田さん、貴方と友人関係などと、私は嘗(かつ)て貴方を友人と思った事は有りません。」
江「其れは爾(そう)です。貴女の方では、師とも先輩とも仰いで下さるけれど、私は其れに満足が出来ず、今日改めて縁談を申し込みに参りました。」
網「エ、エ、縁談?私へ縁談?其れは何の事です。」
江「ハイ、何うか此の江南の妻に成って下さる様に。」
網「貴方の妻には成れません。」
江「爾う謙遜な事のみ仰らずにーーー。」
網守子は、今まで殆どポルキュパインと云う針鼠の様に、出来るだけの莉々(とげとげ)を現わして居たが、其の莉々(とげとげ)が一つも此の男には利かないのを見て、全く堪忍袋の緒が切れた。殆ど猛然として立ち上がり、
「私は、貴方の事を知って居ると申したでは有りませんか。貴方の事を知って居る者が、何うして貴方の妻に成れましょう。」
江「知って居るからこそ、妻に成れるでは有りませんか。」
網「私が知って居ると云うのは、貴方の一切の詐欺生活を知って居るのです。貴方の絵画も、貴方の詩も、総て自分の力では無く、他人を詐欺して得たのです。其の上に貴方は、戯曲をまで詐欺する積りで有ったのでは有りませんか。妻をまで、詐欺で得ようと為さるのですか。」
是には江南も驚かざるを得ない。
彼は、昨夜の事を総て偶然の出来事と見て、真逆(まさか)に網守子が、事の奥底までは知っては居ないだろうと思い、初鳥添子から警戒を与えられても、単に其れを聞き流して居た。けれど今は、此の網守子が、深い秘密の底までも知って居ることが分かった。昨夜の事も、偶然では無く、自分を攻める為の催しであったと分かった。
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