巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune124

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2015.2.25

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         捨小舟  後編   涙香小史 訳

                     百二十四

 全身不随の大佐を連れて、劇場に行く事は、固(もと)より容易な事では無い。しかしなが男爵は目と耳の外に働きのな無い、彼の大佐を喜ばせるものに、劇場に勝るものは無いのを知っている為、特別に大佐の為に作らせた安楽椅子に、大佐を仰向けに寄り掛からせたまま、数名の従者に担がせて馬車に載せ、漸く劇場に行き、又椅子の儘(まま)担がせて、買い切って置いた桟敷へと入ったが、見物の中には、是ぞこの程来世評高き常磐男爵と小部石大佐の両人であると、幕の開く迄は此の桟敷に目を注ぐ人が少くなかったが、やがて幕が開いては、喨々(りょうりょう)《ラッパなどの音が澄んで気持ちよく鳴り響く様子》と響き来る音楽に、満場の耳目は悉(ことご)く舞台の方に集まった。

 初めの幕には彼の評判の高い覆面婦人は未だ現われて来ないが、男爵と大佐の身に取っては、何様久し振りの事なので、非常に楽しみにしていて、大佐の顔の筋も、非常に嬉しそうに弛み揺(うご)いていたので、男爵も之に満足してか、時々大佐を顧みて、幾年来笑いの絶えていた其の顔に、微笑むことすら有るに到った。

 頓(やが)て序幕も済み、二幕目も殆ど終わる頃になったので、男爵は早や少し飽きを催し、其の顔は再び、非常に厳かに引き締まり、幕の終わると共に、立ち去ろうとする心かと疑われたが、其の幕が終わると、場中の何処(いずこ)ともなく、
 「サア、この次は覆面婦人が出るのだ。」
との声が湧き起こり、どの人も待ち焦がれる様に、
 「覆面婦人」、「覆面婦人」
と繰り返して止まなかったので、男爵も折角その覆面婦人の音楽を聞こうとして来たものをと思い直して、再びその腰を落ち着けた。

 「覆面婦人」、真にこれは何人だろう。幕が開いて暫く経ると、身に喪服かと思われる、一点飾り気の無い黒服を纏(まと)い、蓮歩徐徐(せよせよ)として、舞台の上に現われた。
 眩(まば)ゆい迄に飾り立てた場内と云い、綺羅を飾った人ばかりの場所に、この様な婦人が現われては、錦面(にしきおもて)に墨を落とした様な、殺風景な眺めであるはずなのに、婦人の姿の優美なことは、一切の綺羅(きら)《贅沢な美しい衣服》を圧倒して、唯物凄い程なので、満場は早やこの姿に敬服して、身動きもすることが出来ない程に眺め入っていた。
 若しこの婦人をして、その黒い覆面を捨て、顔の一筋でも現わしたなら、如何ほど人を悩ませることだろう。絶世の姿にして、顔も又絶世でないと云う筈は無いと心に描き、空しく気を揉む者も有ったが、否、顔も又絶世ならば、濃き覆面に顔を蔽(おおい)い隠す筈は無い。顔を示したなら、必ず姿と不釣合いで、姿を傷つける程醜い所があるため、殊更に顔を隠しているのだろうと諦めて、沈み込む者もあった。

 この様な中に、満場の熱心を唯一人に集めたかと疑われる程であるのは男爵である。男爵はこの姿の現われると共に、我知らず首を前の方に突き出し、椅子から外れるのも知らないかと思われるほど眺め始めた。
 何のため、何の心で。嗚呼この姿は男爵が自ら忘れたと称するも、なお一刻も忘れる事が出来ない我が妻、常磐男爵夫人園枝の姿である。

 夢にも見、現(うつつ)にも思う、アア園枝でなければ、広い世に二人とこの様な至美絶優《上品で美しい様子》の姿があるだろうか。一旦我が過ちによって毒婦よ、不義者めと思い詰め、牢にまで下した上、艱難と云う艱難、恥辱と云う恥辱を殆ど嘗め尽くさせたが、その後、様々な証拠によって、我が過ちだった事が分ったばかりか、我が胤まで宿して居て、慈恵院で我が一代限り、血筋の将に絶えようとしていた常磐家の嫡流を産み落としたと聞き、我が過ちを詫び、元の境涯に復(かへ)らせるため、急ぎ英国に馳せ附けたが、其の時既に慈恵院を抜け去って、行方が更に分ら無くなった為、男爵は絶望の底に沈み、それから身を捨て、家を捨てて、定まる住所も無い身の上となっていた。

 今もなお、園枝の行方さえ分ったならと、明け暮れ密に思い焦 がれる程であるのに、今この様な意外な所で意外にも園枝を見る。我を忘れるのも、宣告(むべ)なるかな《いかにももっともだ》。
 男爵が万感を胸に集めて眺め入る間に、覆面婦人は舞台の正面に出て、軽く見物の方に向かって黙礼した儘(まま)、又徐々(そそ)として舞台の一方にある小幕の横に退いて、合奏の人と共に音楽の台に上った。

 その歩き方、退き方、総て園枝の姿で、男爵の目には、一点の疑いも無い。惜しいことに、是で覆面婦人の姿は小幕に一半を隠したので、男爵は更に、この覆面婦人の唱い出る声は如何ようだろう、歌はどうだろうと待ちながら、小部石大佐を顧みると、大佐の思う所、また男爵に同じと見え、
 「老友、アレハ園枝だよ、園枝だよ。」
と云わないばかりにその眼を輝かせた。


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