巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune10

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2014.11.3

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         捨小舟  前編   涙香小史 訳

                 十
 永谷は更に下にある一通を見、これはと許(ばか)り驚いて、身体自ずから震え初めたが、まだ我慢し、
 「二通とも私の知らない手紙です。」
と言い切って差し返えした。常磐男爵は自若として、
 「フム、亀岡時子と言う女の名前迄忘れましたか。」
と問うた。

 亀岡時子とは、実は永谷が、今もって自ら思い出すのさえ、冷汗の出る程の非道を加えた女で、その事は誰にも知らさず秘し、隠しに隠して居る所なので、唯だこの一語を聞き、永谷は、さてはこの一大事まで知られたかと、頭に千斤の大石を載せられた心地がして、男爵の顔を仰ぎ見ることすら出来ない。

 男爵は頓(やが)てその手紙を封の中から取り出し、我が前に展(ひら)いて置いたが、急いで読もうとはせず、
 「貴方が忘れたと言うならば、好く思い出す様に私が聞かせて上げましょう。」
と云い、容赦も愛想も無い声で、静かに語り出る所を聞くと、

 今より数年前、この永谷が名誉高い或武人の令嬢と婚礼の約束を結び、その父の許しまで得て、その許に出入りするうち、武人の姪とやらで、その家に世話になり、令嬢の侍女同様に使われていた、亀岡時子と云う娘に想いを懸け、薄情にも婚礼の約束まで有る令嬢の目を忍び、時子が世間不知(しらず)なのを幸いに、様々に説き欺(あざむ)き、自分と駆け落ちの事を承知させ、自分は令嬢初め一同に、避暑の為と言い做(な)して、大陸の旅行に出たが、それより数日を経て、亀岡時子は欺かれる事とも知らず、唯永谷の親切な言葉を頼りに、恩人の家を抜け出で、永谷の後を追い出奔した。

 しかしながら、唯一人で時子が永谷の後を追ったとは知る由も無く、唯不思議に思っていたところだったが、その後フランスの或る宿屋で時子が永谷と共に住み、永谷は名を変じて、夫婦の様に暮らしているなどと、風説する人も有ったが、余り異様な話なので、其のままに立ち消えになっていたが、幾ほどか経て、フランスのルー・モルグと云う所にある、有名な死骸陳列館に、時子の身体は素性知れない溺死人となって晒されて居た。

 幸いに時子を見知る英国人があり、其の死骸を引き取って葬式を営んだが、この時永谷は疾(と)っくに仏国を立ち去って、イタリアに在り、何の疑いも受けずに終ったけれど、唯永谷と夫婦約束をした彼の武人の令嬢は、窃(ひそ)かに永谷を疑って、直ちに夫婦の約束を解いてしまった。

 ここに至って事の事実を調べて見るに、永谷は自分の情欲の続く間は時子と夫婦の様に暮らしたが、薄情な天性は長くこの便り無い女を憐れまず、三月ばかりにして愛想を尽かし、僅かに十金の旅費を与えて、手を切る事を言い渡して、其の身はイタリアへ逃げて行ったので、女は唯途方に暮れ、一書を遺(のこ)してセオンの川に身を投げて、この様に溺死の人と為って、ルー・モルグに晒されたのだ。

 今男爵が示した手紙の一通は、即ち時子がその時に永谷へ宛てて認めた書置きで、死んだ後、その宿から永谷に送ったものが、廻り廻って男爵の手に入ったものだ。
 男爵は是だけの次第を言い聞かせ終わり、
 「その手紙は、学識の無い女の文で、極短く書いて有りますけれど、貴方の薄情を知るには充分です。私が読むからお聞きなさい。」
と言い、相も変わらぬ静かな調子で読み下した。

 その文に曰く、
 「私は親切な方に愛せられました。貴方は幾度も仰(おっしゃ)った通り親切です。タツた三月で愛想を尽かし、英国へ帰れとは何の顔で帰られましょう。私をその様な心と見ましたか。私の帰る所は生まれぬ前の暗夜(やみよ)より有りません。セオンの川は今夜の中に私を引き取ります。暗(やみ)へ帰るのに旅費は要りません。下さった十金はこの手紙に封じて返します。明日にもモルグの死骸館に十八、九の溺死した女が晒されたとお聞きなされば、もうこの世に貴方を恨む女は無いと安心してお眠りなさい。」

 実に飾り気の無い手紙ではあるが、何と云うその意の凄絶なことか。こうと決意した男爵も流石に耐え難かったのだろう。ホロリと落とす一滴の涙を手の甲に受け、卓子(テーブル)の下に隠して、少しの間無言だったが、良(やや)有って、微(わず)かに震える音調で、

 「次の手紙は読む迄も有りません。或る銀行の雇い人で、貴方に放蕩に誘い込まれ、博打にも貴方に負け、それが為に銀行の金まで使い込み、流刑に処せられる時、後に残る唯一人の老母を貴方に託して行きましたが、貴方はその老母が、この前週に飢え死にした事すら今もって知らないでしょう。

 今読んだ時子の手紙はその老母が死際まで保存して居たのです。この手紙さえ有る中は、貴方が見捨てはしないだろうと思い、其の息子が貴方の手紙から取り出して、老母に渡して置きましたが、それでも貴方が構って呉れない為、老母が時子の手紙を封じ込み、その次第を認(したた)めて、或る然るべき人に託し、私へ送り届けました。それが第二の手紙です。老母の葬式一切はこの前週に私が貴方に代わって営んで遣りました。」

 事細かに言い聞かされ、永谷は日頃の弁巧も消え失せて、言い解く方法も知らない。
 唯首をうな垂れて、最後の宣告を待つばかりである。


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